2022年09月25日

「東方の人・西方の人」 杉田英明=編 東洋文庫 ふしぎの国 平凡社 1989年

『ミランダ王の問い』 p38〜

 「王は問う、
 「尊者ナーガセーナよ、いかなる理由がよって、人々はすべて平等ではないのですか? すなわち、或る人々は短命で、或る人々は長命です。 また或る人々は多病であり、或る人々は病が少ないです。 或る人々は醜怪ですが、或る人々は端麗です。 或る人々は力弱く、或る人々は力が強い、 或る人々は財少なく、或る人々は財が多い。 或る人々は卑賎の家に生まれ、或る人々は高貴な家に生まれます。 或る人々は愚かであり、或る人々は賢明です」

 そこでナーガセーナは反問する、「大王よ、なぜ樹木はすべて平等ではないのですか? <それらの果実についてみるに>、或るものは酸っぱく、或るものは甘いです」

「尊者よ、それはもろもろの種子が異なっているからだ、とわたしは思います」
「大王よ、それと同様に、<宿(しゅく)>業(ごう)の異なることによって人々はすべて平等ではないのです。 すなわち<その故に>或る人々は短命で、或る人々は長命です。 或る人々は醜怪ですが、或る人々は端麗です。 或る人々多病であり、或る人々は病が少ないのです。 或る人々は集会ですが、或る人々は端麗です。 或る人々は力弱く、或る人々は力が強い。 或る人々は財少なく、或る人々は財が多い。 或る人々は卑賎の家に生まれ、或る人々は高貴の家に生まれます。 或る人々は愚かであり、或る人々は賢明です。 大王よ、世尊はこのことをお説きになりました。ー 
 
『バラモン学生よ、生けるものどもは、それぞれ各自の業を所有し、業を相続するものであり、業を母胎とし、業を親族とし、業をよりどころとしている。 業は生けるものどもを、賤しいものと尊いものとに差別する』と」

「もっともです、尊者ナーガセーナよ」」

(『ミリンダ王の問い』1)

----

posted by Fukutake at 06:56| 日記

2022年09月24日

お金の力

「悪の哲学」 ちくま哲学の森3 筑摩書房 1990年

「ブルジョワ社会における貨幣の権力」 マルクス 三浦和雄・訳 p287〜

 「わたしが人間としてできないことがら、したがってわたしのあらゆる個人的本質の諸力ができないことがら、これをわたしは貨幣を介しておこなうことができる。 貨幣はこうして、これらの本質の諸力のおのおのを、なにかそれ自体とは別のものに、いいかえればそれの反対物にしたてあげるのである。

 わたしがなにか食べものをこがれたり、道を歩いていくほどじょうぶでないので、駅馬車をやとおうとするとき、貨幣は食べものや駅馬車を調達してくれる。 すなわち、それはわたしのねがいを観念的な存在から、感性的で・現実的な存在にかえてくれる。 すなわち、それはわたしのねがいを思想上・想像上・意欲上の存在から、感性的で・現実的な存在の域に、観念の存在の域から生活の域に、おもいうかべられた存在の域から現実の存在の域にうつしかえてくれる。 貨幣はこのような媒介として真に創造的な力である。

 需要はいかに貨幣をもたない人にたいしても現存している。 しかしかれの需要はあくまで観念のうえの存在にすぎず、わたしにたいしても、第三者にたいしても、他のものにたいしても、どんな影響力も、どんな現存態ももたず、したがってわたし自身にたいして非現実的なもの、対象を欠くものにとどまっている。 貨幣のうえに基礎をもつ有効需要と、わたしの欲求や情熱や願望などのうえに基礎をもつ無効需要とのあいだの区別は、存在と思惟とのあいだの区別、もっぱらわたしのうちだけに現存している観念と、現実の対象としてわたしの外部にわたしにたいしてあるものの観念との区別である。

 もしもわたしが旅行のための貨幣をもっていなかったすれば、わたしは旅行の欲求を、すなわち実現していく現実の欲求をもっていないのである。 もしわたしが学問への使命を感じたとしても、このための貨幣をもっていなかったとすれば、わたしは学問への使命を、すなわち効果のある真の使命を感じていないのである。 これとは反対に、かりにわたしが学問への現実的ないかなる使命を感じていなかったとしても、意欲と貨幣とをもってさえすれば、わたしはそれへの効果的な使命を感じているのである。 貨幣は ー 人間としての人間にも、社会としての人間的社会にもゆらいしていない外的で一般的な手段や能力として ー 観念を現実に、そして現実をたんなる観念にかえるのであるが、それは一方で現実的・人間的・自然的本質の諸力をたんに抽象的観念に、したがって不完全なものに、苦悩にみちた妄想に、変化させるとともに、おなじく他方で現実には不完全なものを、妄想をもっぱら個人の空想のうちにのみ現存している現実には無力な個人の本質の諸力を、現実の本質の諸力に、能力に、変化させる。 すでにこれらの規定より見ても、貨幣は、諸個性を一般的に転倒するものであって、それらを反対物に逆転したり、それらの属性にあい矛盾する属性を付加したりするものなのである。」

----

posted by Fukutake at 08:19| 日記

円仁

「炉辺夜話」 日本人のくらしと文化 宮本常一 河出書房新社 2005年

円仁 p67〜

 「日本における山岳信仰を持った人たちの移動が、だいじな問題となって来ます。比叡山の方でそれを大きく持ち上げた人は円仁です。 円仁という坊さんは、第三代の天台座主の方ですけれども、東北の寺々は、円仁が開いたということになっております。

 円仁が、東北を開発したということは、円仁が下野の国の出身だったということで、うなずけてくるわけです。 というのは、昔のすぐれた聖者たちは、その郷里をもっとだいじにしているからです。 弘法大師は、讃岐で生まれたのです。 したがって、四国を自分の行場にしているのです、 最澄は、近江で生まれたのです。 近江一円をやはり行場にして歩いたのです。 円仁が、下野を歩いたということから、下野の北の山々を駆けたということが分かるのです。 当時の信仰というものは、そういうものだったのです。 つまり、自分の思想というよりも、その人の持っているものの感じ方、それを受けとる人のいるところに布教することが一番効果があるのです。 そして、そこで尊ばれるような人が、ほんとうに尊いんだということになるのです。

 そうしますと、円仁という一人のすぐれた坊さんは、大変な坊さんだったということは、円仁の遺しました『入唐求法巡礼記』という本がありますので、それをお読みになってみられるとわかります。 当時はあれほどすぐれた人はいなかったのです。 今でも、あれほど目のつんだ日記をのこしている人はおりません。 その当時のことが、手に取るようにわかって来ます。 それが、しかも、東北の入口から出て来たのです。 そして、この人が五台山に行くまでどんな苦労をしたかということを読んでみると、東北地方を歩くなどということは、あの人にとっては、朝飯前の仕事だったと言ってもよい程度のものなのです。これは、円仁の日記をお読みになったら、すぐわかります。 とにかく、こんなえらい人が、今から千年も前に、日本におったのです。

 ここに住んで、せまいところにいると、雪の中歩いて大変だろうと思うでしょうが、円仁は、隋の五台山まで行っているのです。 とにかく、日本に帰るのがいやで、なんとかかんとか住み回って歩いているのです。 しかも歩いた時期というのは、大変な飢饉だったのです。 いたるところで人が死んでいる。 その中を歩いているのです。 そういうエネルギーが、この東北の端におよんで来る。 雪が降って寒くて、こんな所は、人の住めるところでなかったと、お考えになっているかもしれませんが、それよりも、雪が降るぐらい、たいしたことはない、と言っているすぐれた人が、おったのです。 そういうところを教化するところに宗教の意味があるのだと、考えておったのです。」

−-
 
posted by Fukutake at 08:15| 日記