「父・こんなこと」 幸田 文 新潮文庫
葬儀 p82〜
「(父・幸田露伴の)葬儀については遺言など無かったが、ずっと前には私は父自身からから聴いていたから、それは遅疑するところ無く決定していたのである。その易(ととの)わんより寧ろ戚(いた)め、なのである。
呉先生がお亡くなりになって、もう何年もなるだろう。この時も私が名代をした。青山斎場の通は喪服の行列であり、受附には御門生と思える沢山の青年達が控えてい、私は名刺を出して代参の詫を述べた。霊前には余栄を語る畏(かしこ)きあたり、各宮家から真榊(まさかき)が並びつらなり、香煙は籠め、うしろに控え待つ人のために焼香はみな早間になされるその中に、私の前なる老人はあきらかに聞取れる声で、「忰がお世話になりまして」と云って、二度の礼拝をしていた。遺族親戚の方々は名も御存じない筈の私へも、作法正しい深い礼を返され、すべては丁重のうちに華々しくさえ見受けられ、立派であった。
父はその報告を聴いていたが、にこにこと機嫌よく、おまえは私の葬式がどういうようになると思っているかと訊いた。機会である。子の方からやたらには切り出せない事柄である。狡猾さを気にしながら問を以て答えとした。「どんな風にするのかしら。」「おまえがきょう見て来たものとは凡そ違うものなのさ。溢れるほどに人が来るなんて思っていれば見当違いだ」と云って笑い、「明の太祖の昔話にあるじゃないか。棺桶も買えない貧乏な兄弟がおやじさんを開き樽に入れて、さし荷いでとぼとぼと行く途中の石ころ道に、吊った縄は断れる、仏様はころがり出す。しかたがないから一人が縄を取りに帰ったなんていうのは、いくらなんでもあんまり厄介過ぎるから、まあ住んでる処の近処並に極あっさりとやっといてくれりゃそれでいいよ。おまえは気の毒だがうちは貧乏だ、わたしの弔いのためにおまえが大骨折って金を集めたり、気を遣ったりして尽くしてくれることはいらない。傷むなと云ったっておまえは子だから傷むにきまっている、それで沢山なんだよ。」なごやかな心で柔かく話す時の父の調子は、まったくいいものであった。よその父親は如何に娘に話すか知らないが、こういう時の父は天下一品のおやじだと思っている。どこのおとうさんととりかえるのもいやだと思う。だから叱られて泣く時にはたまらないが、思い出して我慢するのである。
私は勇気を出して、訊くだけのことは訊いておこうとした。「お葬式は死んだ人の格でするの、それとも残った人の柄でするの。」「そりゃ一体婚礼でも葬式でも人の集まることには、自然のなりゆきというものを考えに入れなくてはならないから、きめておくというわけにも行くまい。そんなことは、なあに気にすることは無いよ、ぶつかった時をよく見ればすぐにわかるさ。」これは少し心細いことだったが押した。「それじゃその場にしたがって文子のできるだけでいいの。」「そうさ、なんでもおまえがあくせくしないでやれるところが、ちょうどいいところだ。」二度は聴くまいこれらのことは、刻んで覚えた。」
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父の葬儀の心得
除霊
「ぬるい生活」 群ようこ 朝日新聞社 2006年
除霊 p126〜
「ついこの間、女性四人で会った。中の一人が以前からと違い、顔つきが明るく顔色もよく、むくんだようになっていた体も細くなっていて、明らかに体調が戻ったと傍目にもわかった。
「よかったわね」と話していたら、彼女が、
「みなさんにはご心配をおかけしました」と頭を下げたあと、
「実は悪霊が憑いていたんです」といい出した。
「はあ?」韓国料理を食べていた私たちは、思わず箸が止まり、
「悪霊?」と聞き返した。せっかく病気が完治しつつあるのに、別の問題が起きたかと驚いてしまったが、
「病気になったのは本当なんです。でもそこを悪霊につけ込まれたらしいんです」という。「はあ」
こういう話は、「はあ」といって聞いているしかない。
前に会ったとき、彼女はあまり病気がよくならないので、どうしたら現状を打破できるかと、当たるという占師を探して、観てもらったという。するとその人は彼女に、
「これを持っていると悪いものから守ってくれるから」
と小さな水晶を渡した。もちろんお金は払ったけれども、びっくりするような値段ではなかった。それが、家に持ち帰って置いておいたら、あるとき無くなっているのに気がついた。子供がいたずらした気配もない。このままでいいのかと占師に連絡すると、その水晶が悪いものを引き受けてくれたので、そのままにしておいてよいといわれたといっていた。
人間は不安になると何かに頼りたくなるから、それもまたあることだろうと、私たちは黙って聞いていた。 しかしそれからまた症状が悪化したので、別の占師に観てもらったら、悪霊が憑いているといわれて、彼女はびっくりした。もちろんそんな話は夫も信じない。しかし現実に病気があるわけだし、何とか治りたいと思った彼女は、無料で除霊をしてくれるところに、夫と一緒に出向いた。三月、六月の二回除霊をしてもらったが、それだけでは悪霊が取れず、九月にも除霊して、やっと気分が晴れるようになったというのだ。
「そんなに何度もしたの?」
「はい、一度にとりきれなかったので、全部で十一人いたんです」
「えっ、十一人?」
「三月に三人、六月に三人、九月に五人、除霊してもらいました」
「はあ」
「萩尾望都の漫画に、そういうのがあったよね」
そう私たちはいいながら、彼女の話を聞いていた。体を棒で突っつかれて、悪霊とのすったもんだのやりとりがいろいろあるらしいのだが、明らかにその時に、自分でない何かが体の中にいるのがわかったという。
「それで最後に、何かが口から出たんです」
除霊をしてくれた人の話によると、精神状態が脆い状態になったときに、すかさず取り憑く悪霊がいるらしい。最初は全く信用していなかった彼女の夫も、彼女に付き添って除霊の現場を見てはじめて、これは本物だと認めたとのことだった。…
過程はどうあれ、ともかく彼女が社会復帰できてよかった。また人の弱みにつけ込む、悪徳商法や怪しげな宗教にひっかからなくてよかった。病気も自分や周囲の人のせいではなく、悪霊の仕業と考えたら、彼女も気持ちが軽くなるだろう。しかしどうしてそれだけの悪霊が憑いたのか。それがしばらく私たちの間では、一番の話題になったのである。」
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除霊 p126〜
「ついこの間、女性四人で会った。中の一人が以前からと違い、顔つきが明るく顔色もよく、むくんだようになっていた体も細くなっていて、明らかに体調が戻ったと傍目にもわかった。
「よかったわね」と話していたら、彼女が、
「みなさんにはご心配をおかけしました」と頭を下げたあと、
「実は悪霊が憑いていたんです」といい出した。
「はあ?」韓国料理を食べていた私たちは、思わず箸が止まり、
「悪霊?」と聞き返した。せっかく病気が完治しつつあるのに、別の問題が起きたかと驚いてしまったが、
「病気になったのは本当なんです。でもそこを悪霊につけ込まれたらしいんです」という。「はあ」
こういう話は、「はあ」といって聞いているしかない。
前に会ったとき、彼女はあまり病気がよくならないので、どうしたら現状を打破できるかと、当たるという占師を探して、観てもらったという。するとその人は彼女に、
「これを持っていると悪いものから守ってくれるから」
と小さな水晶を渡した。もちろんお金は払ったけれども、びっくりするような値段ではなかった。それが、家に持ち帰って置いておいたら、あるとき無くなっているのに気がついた。子供がいたずらした気配もない。このままでいいのかと占師に連絡すると、その水晶が悪いものを引き受けてくれたので、そのままにしておいてよいといわれたといっていた。
人間は不安になると何かに頼りたくなるから、それもまたあることだろうと、私たちは黙って聞いていた。 しかしそれからまた症状が悪化したので、別の占師に観てもらったら、悪霊が憑いているといわれて、彼女はびっくりした。もちろんそんな話は夫も信じない。しかし現実に病気があるわけだし、何とか治りたいと思った彼女は、無料で除霊をしてくれるところに、夫と一緒に出向いた。三月、六月の二回除霊をしてもらったが、それだけでは悪霊が取れず、九月にも除霊して、やっと気分が晴れるようになったというのだ。
「そんなに何度もしたの?」
「はい、一度にとりきれなかったので、全部で十一人いたんです」
「えっ、十一人?」
「三月に三人、六月に三人、九月に五人、除霊してもらいました」
「はあ」
「萩尾望都の漫画に、そういうのがあったよね」
そう私たちはいいながら、彼女の話を聞いていた。体を棒で突っつかれて、悪霊とのすったもんだのやりとりがいろいろあるらしいのだが、明らかにその時に、自分でない何かが体の中にいるのがわかったという。
「それで最後に、何かが口から出たんです」
除霊をしてくれた人の話によると、精神状態が脆い状態になったときに、すかさず取り憑く悪霊がいるらしい。最初は全く信用していなかった彼女の夫も、彼女に付き添って除霊の現場を見てはじめて、これは本物だと認めたとのことだった。…
過程はどうあれ、ともかく彼女が社会復帰できてよかった。また人の弱みにつけ込む、悪徳商法や怪しげな宗教にひっかからなくてよかった。病気も自分や周囲の人のせいではなく、悪霊の仕業と考えたら、彼女も気持ちが軽くなるだろう。しかしどうしてそれだけの悪霊が憑いたのか。それがしばらく私たちの間では、一番の話題になったのである。」
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posted by Fukutake at 09:32| 日記
2022年09月25日
悲劇の歴史
「宮ア市定全集 1」ー中国史ー 岩波書店 1993年
毛沢東 p446〜
「(中国)共産軍の大長征以来、党と軍を指導してきた毛沢東は人民共和国成立以来、全国民の偶像となった。 それは無理もないことで、彼の下で中国は久しぶりに、伝統的な権威を取戻したからである。 中国人が熱望してやまなかった民族主義はようやくにして達成できたのである。 併しながら彼の指導力は彼の年齢の増加と共に低下してきたことも争えない。 建国後十年を経て、第二期全国人民代表大会において、国家主席には新たに劉少奇が選ばれ、毛沢東は党主席として党務に専念することが定められた(一九五九年)。 丁度この頃は中国の食糧不足の危機を迎えた上、中国とソ連との間の同盟関係にも亀裂が生じ、中国にとっては最も困難な時期を迎えたわけである。 共産主義の先進国ソ連に対してもし応手を誤ると、中国内部にどんな異変が生じないとも限らない。 当時中国とソ連とは一枚岩と称せられる程の堅い団結を誇っていたからである。 そしてこの危機は統制の手直しによる食糧増産、及び国論をまとめてソ連との断絶という形で切抜けられた。
その後に起こったのが文化大革命である(一九六六年)。 この運動の真相は実は誰にも分からない。 表面的には軍部の実力者で国防部長の林彪が主となり、国務院総理の周恩来と共に、紅衛兵を動かして国家主席の劉少奇を排撃失脚せしめ、再び党国の全権を毛沢東の手に返したという結果になっている。 劉少奇に伴って、党中央総書記、ケ小平なども実験派として追放された。 この運動が何故起こらねばならなかったかの理由についての説明は、党が本来の革命路線から外れ、目前の実効を追求する修正主義への途を走ろうとし、党内に私的な団結を造って権力を掌握してきた者ができたから、それを打倒せねばならぬというにある。 イデオロギーを重んずる党においては、何時も問題となるのは、原則が大事か、実効が大事かという選択であるが、この文化大革命においては、劉少奇の政策は原則を無視した点で、革命路線から後退したとして非難されたのである。 同時にこの運動は毛沢東の復権という権力闘争の意味があったこともまた否定できない。 林彪は毛沢東の著述の中から、人民の学習すべき教訓を編集し、毛沢東語録として頒布し、一時全人民の必読の書とされた。
現今から見て注意さるべき点は、この運動を裏面から動かしていたのは、毛沢東夫人の江青女史であったという事実である。
併し表面的には文化大革命の第一の立役者は林彪であり、この後彼の権威が大いに高まった。 そして三年後の第九回全国党代表大会においては、次期の党主席に指名され、更にそのことを党規の中まで書き込ませたのは、誰の目にも行き過ぎと見られた。 独裁天子の場合、皇太子を立てると弊害を生じやすいことは、既に清朝において照明ずみの事柄であった。 果たして党内に反感が高まったが、今度は紅衛兵が動いて壁新聞で批判するといった形式は取られなかった。 どうやら毛沢東と周恩来と林彪にだけは批判が禁じられていたらしいのだが、それだけ内面的な葛藤は一層深刻であった。 国民の誰もが知らない間に、林彪は飛行機で脱出しようとして、外蒙古上空から墜落して死んだ。 その死が発表されたのも数箇月の後であった(一九七二年)。
生前批判されることのなかった林彪は死後になって厳しく批判されることになった。しかも今度は数千年前の孔子と抱き合わせにして、批林批孔という形で行われた。」
(初出 岩波全書(下)一九七八年六月二十七日))
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毛沢東 p446〜
「(中国)共産軍の大長征以来、党と軍を指導してきた毛沢東は人民共和国成立以来、全国民の偶像となった。 それは無理もないことで、彼の下で中国は久しぶりに、伝統的な権威を取戻したからである。 中国人が熱望してやまなかった民族主義はようやくにして達成できたのである。 併しながら彼の指導力は彼の年齢の増加と共に低下してきたことも争えない。 建国後十年を経て、第二期全国人民代表大会において、国家主席には新たに劉少奇が選ばれ、毛沢東は党主席として党務に専念することが定められた(一九五九年)。 丁度この頃は中国の食糧不足の危機を迎えた上、中国とソ連との間の同盟関係にも亀裂が生じ、中国にとっては最も困難な時期を迎えたわけである。 共産主義の先進国ソ連に対してもし応手を誤ると、中国内部にどんな異変が生じないとも限らない。 当時中国とソ連とは一枚岩と称せられる程の堅い団結を誇っていたからである。 そしてこの危機は統制の手直しによる食糧増産、及び国論をまとめてソ連との断絶という形で切抜けられた。
その後に起こったのが文化大革命である(一九六六年)。 この運動の真相は実は誰にも分からない。 表面的には軍部の実力者で国防部長の林彪が主となり、国務院総理の周恩来と共に、紅衛兵を動かして国家主席の劉少奇を排撃失脚せしめ、再び党国の全権を毛沢東の手に返したという結果になっている。 劉少奇に伴って、党中央総書記、ケ小平なども実験派として追放された。 この運動が何故起こらねばならなかったかの理由についての説明は、党が本来の革命路線から外れ、目前の実効を追求する修正主義への途を走ろうとし、党内に私的な団結を造って権力を掌握してきた者ができたから、それを打倒せねばならぬというにある。 イデオロギーを重んずる党においては、何時も問題となるのは、原則が大事か、実効が大事かという選択であるが、この文化大革命においては、劉少奇の政策は原則を無視した点で、革命路線から後退したとして非難されたのである。 同時にこの運動は毛沢東の復権という権力闘争の意味があったこともまた否定できない。 林彪は毛沢東の著述の中から、人民の学習すべき教訓を編集し、毛沢東語録として頒布し、一時全人民の必読の書とされた。
現今から見て注意さるべき点は、この運動を裏面から動かしていたのは、毛沢東夫人の江青女史であったという事実である。
併し表面的には文化大革命の第一の立役者は林彪であり、この後彼の権威が大いに高まった。 そして三年後の第九回全国党代表大会においては、次期の党主席に指名され、更にそのことを党規の中まで書き込ませたのは、誰の目にも行き過ぎと見られた。 独裁天子の場合、皇太子を立てると弊害を生じやすいことは、既に清朝において照明ずみの事柄であった。 果たして党内に反感が高まったが、今度は紅衛兵が動いて壁新聞で批判するといった形式は取られなかった。 どうやら毛沢東と周恩来と林彪にだけは批判が禁じられていたらしいのだが、それだけ内面的な葛藤は一層深刻であった。 国民の誰もが知らない間に、林彪は飛行機で脱出しようとして、外蒙古上空から墜落して死んだ。 その死が発表されたのも数箇月の後であった(一九七二年)。
生前批判されることのなかった林彪は死後になって厳しく批判されることになった。しかも今度は数千年前の孔子と抱き合わせにして、批林批孔という形で行われた。」
(初出 岩波全書(下)一九七八年六月二十七日))
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posted by Fukutake at 07:00| 日記