「宮本常一著作集 12 村の崩壊」 未来社
生活とことば p171〜
古きよきものの意味
「戦後の村々をあるくようになって、戦前にはないはつらつとしたものを方々で見た。まず、今の方がよい、戦争にまけてよかったという声である。何がよいのかといえば、農地解放がおこなわれて、みな自作になれたということである。土地が自分のものになった。その土地で何をつくろうと自分の勝手である。自分の思いのままの経営ができる。というのが多くの百姓たちの言い分であった。
それまで(戦前)に旅の途中で話をたのまれて、大ぜいの前に立つことがあったが、そういうとき、その集まりの中に何人かの人がひたいで物を見るような眼つきをしていた。それは、「おまえ、そんなことをいっているけれど、そんなことできるものではない」という不信と抵抗を示しているものであった。それはいつも私の心を暗くした。
ところが、戦後は方々で話をしてみても、そういう人はほとんどいなくなった。一応皆前向きになり、現下の状況を喜んでいるように見えた。しかし考えてみると、その人たちは七〇〜八〇歳の老人ではなく、若い者の方であった。
それでは老人たちはどう考えていただろうか。「今の方がはるかに暮らしよくなった」という老人にたくさん出あったのは秋田・長野・新潟・大阪・鳥取・熊本などであった。熊本を除いては小作争議の比較的多かったところのように思われる。
その反対に世の中が人情がうすれて暮らしにくくなったような気がするという声を多く聞いたのは、岩手・青森・石川・山梨などだった。老人たちの言い分はいろいろあった。 何も彼も現金取引だし、義理も人情もなくなった。強い者勝ちになった。人間一人一人が妙につめたくなってゆく、人情紙のごとし、にくまれ子が世にはびこる等々。今思い出してみても、世をなげいていた老人は少なくなかった。そういう人は「今のほうがよい」といっている地方にもいたのである。ただし私が話しあった多くの人たちを想いうかべての比重にもとづいての話である。…
ただ、見も知らぬ旅人の私を快くとめてくれたのは、いつの場合も「相見たがい」の思想であった。くだいて言えば持ちつ持たれつということである。「いつおまえの世話になるかもわからぬ、ならぬかもわからぬ。おまえがどこの馬の骨であってもかまわぬ。泥棒であってもかまわぬ。困っている者をとめるのは相見たがいだ。」といってとめてくれた宮崎県南郷村や高知県富山町の老人をいまでも思い出すことができる。」
初出 (原題「生活から何が失われたか」『展望』1968年6月)
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「戦後の老人は学校教育をうけたものが多くなる」
2022年09月28日
戦乱の中のおくゆかしさ
「井伏鱒二全集 第十一巻」(随筆) 筑摩書房 1965年
よごのうみ p170〜(旧仮名遣いを直しました)
「私が子供のときの話だが、あるとき麻疹にかかって寝ていると、私の兄が隣の部屋で本を読みだした。 いつになく大きな声で朗読する。 何か羨ましいようなものであった。 教科書を読んでいたのか少年雑誌を読んでいたのか知らないが、内容は昔の逞しい武者の逸話である。 今もおぼろげながら覚えている。
それは関ヶ原の合戦か賤ヶ岳の合戦後の話であるようだ。戦乱がすんで世の中が平和を取返し、どこかの城中に登城していた武士たちが、嘗て戦場を往来していたときの経験談を順番にやりはじめた。 やがて、そのなかの或る一人の話す順番が来た。
「それでは、自分も合戦の場の思い出を一つ語りたい。 自分は弱年のころより数多の合戦に加わって、数多の敵と槍を交わしたが、いかにも奥ゆかしい敵と感じた敵武者には大して遭わなかった。 しかし、ただ一度そういう敵武者に遭った。」
こんな前置きでその武士は語りだした。
その合戦の場所は近江の余呉湖(よごのうみ)のほとりである。 払暁から午後へかけて乱戦にその武士は数多の敵を打取ったが、みんな雑兵ばかりで目ぼしい敵には出会わない。 もはや西の山に日が沈みかけていた。 よき敵はないかと余呉湖の岸づたいに敵の姿を捜し歩いていると、向うから鎗を小脇に抱えた立派な鎧姿の敵武者がやって来た。 そこで声をかけ、いざ勝負と鎗をかまえると、敵武者は落着きはらってこう云った。
「我らは、今朝ほどより数多の雑兵を討取った故、我らの鎗は雑兵どもの血糊でよごれておる。 故に、そなたをこの鎗で突いて進ぜるのは失礼だと考える。 今、我らの鎗を洗い濯ぐまでお待ちあれ。」
その敵武者は湖水の水で鎗を洗い、一つ二つしごいて身構えた。 そこで鎗と鎗との闘いがはじまったが、相手は見事な構えでこちらの附込む隙がない。 こちらも油断なく構えていた。 無論、一つ二つは合わせたが勝負がつきかねて、お互いに構えているうちに敵の顔も見えなくなるほど日が暮れて来た。
「暗い。 見えなくなった。 本日のことろはこれで措き、また他日合戦のとき勝負を決したい。」
敵武者がこう云って鎗を伏せたので、こちらも鎗を引いて後にさがった。 もうそれきりその武者には遭わないが、思い出しても気持ちのいい武者であった。 お互いに名のりもあげないし、旗指物もお互いにちぎれ去っていたのだから名前もわからない。 あの武者は今どうしているだろう。 思い出すたびになつかしく思う。 敵前で鎗を洗うとは奥床しい。」
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よごのうみ p170〜(旧仮名遣いを直しました)
「私が子供のときの話だが、あるとき麻疹にかかって寝ていると、私の兄が隣の部屋で本を読みだした。 いつになく大きな声で朗読する。 何か羨ましいようなものであった。 教科書を読んでいたのか少年雑誌を読んでいたのか知らないが、内容は昔の逞しい武者の逸話である。 今もおぼろげながら覚えている。
それは関ヶ原の合戦か賤ヶ岳の合戦後の話であるようだ。戦乱がすんで世の中が平和を取返し、どこかの城中に登城していた武士たちが、嘗て戦場を往来していたときの経験談を順番にやりはじめた。 やがて、そのなかの或る一人の話す順番が来た。
「それでは、自分も合戦の場の思い出を一つ語りたい。 自分は弱年のころより数多の合戦に加わって、数多の敵と槍を交わしたが、いかにも奥ゆかしい敵と感じた敵武者には大して遭わなかった。 しかし、ただ一度そういう敵武者に遭った。」
こんな前置きでその武士は語りだした。
その合戦の場所は近江の余呉湖(よごのうみ)のほとりである。 払暁から午後へかけて乱戦にその武士は数多の敵を打取ったが、みんな雑兵ばかりで目ぼしい敵には出会わない。 もはや西の山に日が沈みかけていた。 よき敵はないかと余呉湖の岸づたいに敵の姿を捜し歩いていると、向うから鎗を小脇に抱えた立派な鎧姿の敵武者がやって来た。 そこで声をかけ、いざ勝負と鎗をかまえると、敵武者は落着きはらってこう云った。
「我らは、今朝ほどより数多の雑兵を討取った故、我らの鎗は雑兵どもの血糊でよごれておる。 故に、そなたをこの鎗で突いて進ぜるのは失礼だと考える。 今、我らの鎗を洗い濯ぐまでお待ちあれ。」
その敵武者は湖水の水で鎗を洗い、一つ二つしごいて身構えた。 そこで鎗と鎗との闘いがはじまったが、相手は見事な構えでこちらの附込む隙がない。 こちらも油断なく構えていた。 無論、一つ二つは合わせたが勝負がつきかねて、お互いに構えているうちに敵の顔も見えなくなるほど日が暮れて来た。
「暗い。 見えなくなった。 本日のことろはこれで措き、また他日合戦のとき勝負を決したい。」
敵武者がこう云って鎗を伏せたので、こちらも鎗を引いて後にさがった。 もうそれきりその武者には遭わないが、思い出しても気持ちのいい武者であった。 お互いに名のりもあげないし、旗指物もお互いにちぎれ去っていたのだから名前もわからない。 あの武者は今どうしているだろう。 思い出すたびになつかしく思う。 敵前で鎗を洗うとは奥床しい。」
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posted by Fukutake at 11:22| 日記
山岳民
「山に生きる人びと」(日本民衆史2) 宮本常一 未来社
山中の畑作民 p202〜
「いわゆる山岳民が存在したであろうとおぼろげながら思うようになったのは昭和三十六年の夏以来のことである。 その夏八月、高知から大阪まで飛行機でとんだ。 海岸平野は水田におおわれており、その水田は平野から谷へと断絶することなく続き、はては山中の小さい枝谷の奥まで、木の根が土中に無数に支根をはっているようにのびている。 しかし、いつかは谷奥できえてしまう。 谷の両側や奥は森林になっているが、その森林の上に畑がひらけ、また民家を見かける。 この畑作地にはほとんど水田を見出さない。 畑作帯では畑のみを作っており、水田と畑作地帯の間には断絶がある。
これはいったい何を意味するものであろうかと考えて見たのであるが、このような現象は考えてみると四国山中のみではなかった。 九州の米良、椎葉、諸塚、五家荘、五木などにも見られた景観である。 とくに南九州には八重(やえ)という名称の地がたくさんあり、緩傾斜またはわずかな平地をさすものでハイともいっており、そういうところにも畑もひらけ、また集落も見られるのである。 しかもこの八重部落は標高八百メートルから千メートルの山の中腹以上に分布し、そのほとんどが畑または焼畑を耕作して生活をたてている。 そして隼人というのはもともと八重に住む人の意ではなかったかといわれている。
近畿地方の吉野熊野山中にもこのような集落は多い。 吉野西奥の天ノ河、大塔、十津川などの村々の大半は水田を持たず、焼畑、定畑を耕作し、その集落は山腹のやや緩傾斜面にある。
そこから伊勢湾を東にこえて、三河山中から天竜川筋にもそうした集落は多かった。 そしてそれらの集落の中には落人伝説をもつものもあるが、そうでないものも少なからずある。 たとえば、長野県下伊那郡上村下栗のごときもその一つである。 この部落は遠山川の作った峡谷の上の緩傾斜にあるが、下の谷から上って村をひらいたものではなく、東の赤石山脈の茶臼嶽をこえて、大井川の方からやって来たものであるという。 茶臼嶽は二千メートルをこえる高峻な山である。 そういう山をこえて、人の移動の見られたということは、山中の人がかならずしも川下の方から谷をたどって奥へ奥へとやって来て定住したとは考えられない、むしろ高い山をこえて、高いところから低いところへ下って来た例も少なからずあったものと思われる。 下栗もその一つで、下栗へ定住する前はその東の大野という所に住んでいた。 しかし大野では」十分食料も得られないので、さらに下の緩傾斜地を見つけて、そのに定住した。 そのあたりは栗の木も多く、その実がゆたかで、食料にもなるので、定住の条件はととのっていたわけであるが、この下栗の者が谷底に住む遠山氏と主従関係を結ぶようになったのは、今から四百年前といわれている。 それまでは同じ山中に住んでいても、山腹と谷底の間に交流がなかったというのである。」
『民俗学研究』三十二巻四号(一九六八)特集「山」に掲載。
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山中の畑作民 p202〜
「いわゆる山岳民が存在したであろうとおぼろげながら思うようになったのは昭和三十六年の夏以来のことである。 その夏八月、高知から大阪まで飛行機でとんだ。 海岸平野は水田におおわれており、その水田は平野から谷へと断絶することなく続き、はては山中の小さい枝谷の奥まで、木の根が土中に無数に支根をはっているようにのびている。 しかし、いつかは谷奥できえてしまう。 谷の両側や奥は森林になっているが、その森林の上に畑がひらけ、また民家を見かける。 この畑作地にはほとんど水田を見出さない。 畑作帯では畑のみを作っており、水田と畑作地帯の間には断絶がある。
これはいったい何を意味するものであろうかと考えて見たのであるが、このような現象は考えてみると四国山中のみではなかった。 九州の米良、椎葉、諸塚、五家荘、五木などにも見られた景観である。 とくに南九州には八重(やえ)という名称の地がたくさんあり、緩傾斜またはわずかな平地をさすものでハイともいっており、そういうところにも畑もひらけ、また集落も見られるのである。 しかもこの八重部落は標高八百メートルから千メートルの山の中腹以上に分布し、そのほとんどが畑または焼畑を耕作して生活をたてている。 そして隼人というのはもともと八重に住む人の意ではなかったかといわれている。
近畿地方の吉野熊野山中にもこのような集落は多い。 吉野西奥の天ノ河、大塔、十津川などの村々の大半は水田を持たず、焼畑、定畑を耕作し、その集落は山腹のやや緩傾斜面にある。
そこから伊勢湾を東にこえて、三河山中から天竜川筋にもそうした集落は多かった。 そしてそれらの集落の中には落人伝説をもつものもあるが、そうでないものも少なからずある。 たとえば、長野県下伊那郡上村下栗のごときもその一つである。 この部落は遠山川の作った峡谷の上の緩傾斜にあるが、下の谷から上って村をひらいたものではなく、東の赤石山脈の茶臼嶽をこえて、大井川の方からやって来たものであるという。 茶臼嶽は二千メートルをこえる高峻な山である。 そういう山をこえて、人の移動の見られたということは、山中の人がかならずしも川下の方から谷をたどって奥へ奥へとやって来て定住したとは考えられない、むしろ高い山をこえて、高いところから低いところへ下って来た例も少なからずあったものと思われる。 下栗もその一つで、下栗へ定住する前はその東の大野という所に住んでいた。 しかし大野では」十分食料も得られないので、さらに下の緩傾斜地を見つけて、そのに定住した。 そのあたりは栗の木も多く、その実がゆたかで、食料にもなるので、定住の条件はととのっていたわけであるが、この下栗の者が谷底に住む遠山氏と主従関係を結ぶようになったのは、今から四百年前といわれている。 それまでは同じ山中に住んでいても、山腹と谷底の間に交流がなかったというのである。」
『民俗学研究』三十二巻四号(一九六八)特集「山」に掲載。
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posted by Fukutake at 11:18| 日記