「常山紀談 上巻」 湯浅常山 著 森銑三 校訂 岩波文庫
光秀愛宕山にて連歌の事 p159〜
「天正十年五月二十八日、光秀愛宕山の西坊にて百韻の連歌しける。
ときは今あめが下しる五月かな 光秀
水上まさる庭のなつ山 西坊
花おつるながれの末をせきとめて 紹巴
明智本姓土岐氏なれば、時と土岐を通(かわ)はして、天下を取るの意を含めり。 秀吉既に光秀を討ちて後、連歌を聞き大いに怒りて紹巴を呼び、天が下(した)知るといふ時は天下を奪うの心あらわれたり。 汝しらざるや、と責めらるる。 紹巴、其発句は天が下なると候、と申す。 しからば懐紙を見よ、とて、愛宕山より取り来て見るに、天が下しると書きたり。 紹巴涙を流して、是を見給え。 懐紙を削りて天がしたしると書き換えたる迹分明なり、と申す。 みなげにも書きかえぬ、とて秀吉罪をゆるされけり。 江村鶴松筆把(とり)にてあめが下知ると書きたれども、光秀討たれて後紹巴で秘かにに西坊に心を合わせて、削り又始めのごとくあめが下しると書きたりけり。」
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苦心の改竄
死語 親不孝
「「オーイ どこ行くの」ー夏彦の写真コラム 山本夏彦 新潮文庫 平成十四年
時代遅れの日本男児 p82〜
「藤原正彦なんて平凡な名だから気がつかなかった。 新田次郎と藤原てい夫妻の次男で一流独自の数学者である。
その話を聞きたいと、「室内」五月号(平成四年)の「人物登場」に登場してもらった。
むろん自宅の話も面白かったが、アメリカとイギリスの話の方がもっと面白かった。 私は知識も学問もないものが海外に遊んでも何の得るところがない。 ことに団体旅行は日本がそのまま移動するだけで、あれは大仕掛けのはとバスだと見ているが、この人二十代の終わりに五百人のなかから選ばれて、コロラド大学の助教授になった人である。
それでいてハワイに近づいた時は「見よ東海の空あけて」をおのずと歌った人である。 また真珠湾を見物したときガイドがあまりしつこいので、戦争に不意打ちはつきものだ、どこが悪いと腹をたてた人である。
はじめて教壇に立つときたった一人の日本人だ、バカにされてたまるかと武者ぶるいして、いやこんなときは「王将」を口ずさむと落ちつくと低くつぶやいたという。
いつも日本男児として振舞おうとして、次第に敵愾心が去るプロセスを描いて何より自然なのがいい。 知識と学問のある人が旅をすればそれだけのことがある一例である。
国際化というのは英語なんかしゃべることではない。 英国では誰だって英語を話す。 イギリス人の冗談しゃれ会話のすべては、シェイクスピアをふまえている。 一数学者が朗々と暗誦するのを聞いてそう思った。 なまじ英文学をかじったなんてのはバカにされるだけだ。 それより和漢の古典をしっかり読んでおいたほうが互いに友になれる。
読んでついこの間まで日本人も皆そうだったことを思い出した。 主人は店の者にお前なんのために芝居を見ていると叱った。 「伊勢音頭」の主人公は「身不肖なれども福岡貢(みつぎ)、女をだまして金とろうか」と言うから、見物は女をだまして金をとるのが最低だと知るのである。 忠臣蔵は芝居の独参湯*(どくじんとう)だといわれた。 私たちの冗談もしゃれも笑いも、みんな芝居をふまえていた。
大正十二年の大地震のとき、すでに火は日本橋の私の母の実家に迫っていた。店の若い衆金どんはつづらを背負った、その姿があんまり大時代なので店の女たちがどっと笑ったら、、金どん延若の声色で「つづら背負(しよ)ったがおかしいか」と言ったという。石川五右衛門のせりふである。
ふだんの会話のなかにかれにシェイクスピアがあるように、我に忠臣蔵以下無数の狂言があったのである。 大震災を境にそれは滅びた。 私たちはとり返しのつかないものを失ったのである。
藤原正彦いわく、親不孝を見ると腹がたってたまらぬ、云々。 私は久々で時代遅れの日本男児を見る一種爽快な思いをした。」
独参湯* 元は漢方薬で、万能薬といわれた。仮名手本忠臣蔵は人気作で常に大入りが期待できたため、客入りの悪くなった劇場の起死回生の薬として「芝居の独参湯」と呼ばれた。
(平成四年五月二十八日号)
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時代遅れの日本男児 p82〜
「藤原正彦なんて平凡な名だから気がつかなかった。 新田次郎と藤原てい夫妻の次男で一流独自の数学者である。
その話を聞きたいと、「室内」五月号(平成四年)の「人物登場」に登場してもらった。
むろん自宅の話も面白かったが、アメリカとイギリスの話の方がもっと面白かった。 私は知識も学問もないものが海外に遊んでも何の得るところがない。 ことに団体旅行は日本がそのまま移動するだけで、あれは大仕掛けのはとバスだと見ているが、この人二十代の終わりに五百人のなかから選ばれて、コロラド大学の助教授になった人である。
それでいてハワイに近づいた時は「見よ東海の空あけて」をおのずと歌った人である。 また真珠湾を見物したときガイドがあまりしつこいので、戦争に不意打ちはつきものだ、どこが悪いと腹をたてた人である。
はじめて教壇に立つときたった一人の日本人だ、バカにされてたまるかと武者ぶるいして、いやこんなときは「王将」を口ずさむと落ちつくと低くつぶやいたという。
いつも日本男児として振舞おうとして、次第に敵愾心が去るプロセスを描いて何より自然なのがいい。 知識と学問のある人が旅をすればそれだけのことがある一例である。
国際化というのは英語なんかしゃべることではない。 英国では誰だって英語を話す。 イギリス人の冗談しゃれ会話のすべては、シェイクスピアをふまえている。 一数学者が朗々と暗誦するのを聞いてそう思った。 なまじ英文学をかじったなんてのはバカにされるだけだ。 それより和漢の古典をしっかり読んでおいたほうが互いに友になれる。
読んでついこの間まで日本人も皆そうだったことを思い出した。 主人は店の者にお前なんのために芝居を見ていると叱った。 「伊勢音頭」の主人公は「身不肖なれども福岡貢(みつぎ)、女をだまして金とろうか」と言うから、見物は女をだまして金をとるのが最低だと知るのである。 忠臣蔵は芝居の独参湯*(どくじんとう)だといわれた。 私たちの冗談もしゃれも笑いも、みんな芝居をふまえていた。
大正十二年の大地震のとき、すでに火は日本橋の私の母の実家に迫っていた。店の若い衆金どんはつづらを背負った、その姿があんまり大時代なので店の女たちがどっと笑ったら、、金どん延若の声色で「つづら背負(しよ)ったがおかしいか」と言ったという。石川五右衛門のせりふである。
ふだんの会話のなかにかれにシェイクスピアがあるように、我に忠臣蔵以下無数の狂言があったのである。 大震災を境にそれは滅びた。 私たちはとり返しのつかないものを失ったのである。
藤原正彦いわく、親不孝を見ると腹がたってたまらぬ、云々。 私は久々で時代遅れの日本男児を見る一種爽快な思いをした。」
独参湯* 元は漢方薬で、万能薬といわれた。仮名手本忠臣蔵は人気作で常に大入りが期待できたため、客入りの悪くなった劇場の起死回生の薬として「芝居の独参湯」と呼ばれた。
(平成四年五月二十八日号)
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posted by Fukutake at 07:39| 日記
2022年09月29日
死刑囚からの便り
「絞首台からのレポート」 ユリウス・フチーク著 栗栖 継 訳 岩波文庫
奇跡の看守 p142〜
「ある夜のことだった。私を監房に入れたSSの制服を着た看守は、見せかけのポケット検査しかおこなわなかった。
「どうです?」彼は低い声できくのだった。
「わかりません。あすは銃殺するといわれました」
「こわかったですか」
「覚悟していました」
彼は私の上衣の折り返しの部分を、しばらく機械的にまさぐっていた。
「やるかもしれませんね。あすでないとしても、もっとあとで。しかし、やらないかもしれません。でも、こういう時代ですから… 準備だけはしておくがいいです…」
それから彼はまた黙った。
「もしかひょっとて… だれかに何か伝えたいといったことはありませんか。 それとも、書きものをのこしたいようなことは? もちろん、現在のためではなく、未来のために。 あなたがどうしてここへはいるようになったか、誰かがあなたを裏切ったかどうか、人びとがどういうふるまいをしたか… あなたの知っていることが、あなたとともに消えてしまわないように…」
私が書きものをしたくないかって? まるで私の熱望してやまぬ願いごとを、ぴたっといい当てたようなものである。 彼はすぐに紙と鉛筆を持ってきた。 私はそれらをどんな検査を受けても見つからぬよう、入念に隠した。
しかし、私はそれらには一度も手をつけなかった。
あまりにもうまい話しなので、信じられなかったのである。 ここ、この暗黒の建物のなかで、検挙されてから数週間後に、どなったりなぐったりばかりする連中と同じ制服のなかに、私があとかたもなく消えてしまうようなことのないよう、あとから来る人たちのためにいうべきことを伝え、生きぬき、生きのびる人たちとせめてひとときなりと、話ができるようにと、私に助力の手をさしのべてくれる人間、友人を見出すことができるとは、あまりに話がうますぎるではないか。 しかも、ほかならぬこういう時に! 廊下では処刑される人たちの名が大声で呼ばれていたし、血に酔った者は乱暴にどなり、どなることのできない者は恐怖にのどをつまらせていたのである。
ほかならぬこういう時、こういう瞬間にー いや、信じられない。 こんなことが真実であるはずはない。 ワナにきまっている。 こういう状況のなかで、自分の方から進んで私に手をさしのべるという人間には、どれだけの力のいることだろう! どれだけの勇気がいることだろう!
約一月過ぎた。 戒厳令は解かれ、どなり声はあまり聞かれなくなり、過酷なときどきは思い出に変わりつつあった。 また夜で、私はまた尋問から帰り、同じ看守とふたたび監房の前に立っていた。
「助かったようですね。 うまくいきましたか」彼はさぐるように私を見つめるのだった。「何もかも?」
私にはその質問の意味がよくわかった。 私は深く感動した。 しかもそのことがほかの何事よりも、彼の誠実さを私に確信させたのである。 そうする権利を内部に持っている人間でないと、そういう質問はできるものではない。 そのときから私は、彼を信用するようになった。 彼はわれわれの側の人間だったのである。」
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この手記が残ったのは、二人のチェコ人看守の決死的な助力があった。
奇跡の看守 p142〜
「ある夜のことだった。私を監房に入れたSSの制服を着た看守は、見せかけのポケット検査しかおこなわなかった。
「どうです?」彼は低い声できくのだった。
「わかりません。あすは銃殺するといわれました」
「こわかったですか」
「覚悟していました」
彼は私の上衣の折り返しの部分を、しばらく機械的にまさぐっていた。
「やるかもしれませんね。あすでないとしても、もっとあとで。しかし、やらないかもしれません。でも、こういう時代ですから… 準備だけはしておくがいいです…」
それから彼はまた黙った。
「もしかひょっとて… だれかに何か伝えたいといったことはありませんか。 それとも、書きものをのこしたいようなことは? もちろん、現在のためではなく、未来のために。 あなたがどうしてここへはいるようになったか、誰かがあなたを裏切ったかどうか、人びとがどういうふるまいをしたか… あなたの知っていることが、あなたとともに消えてしまわないように…」
私が書きものをしたくないかって? まるで私の熱望してやまぬ願いごとを、ぴたっといい当てたようなものである。 彼はすぐに紙と鉛筆を持ってきた。 私はそれらをどんな検査を受けても見つからぬよう、入念に隠した。
しかし、私はそれらには一度も手をつけなかった。
あまりにもうまい話しなので、信じられなかったのである。 ここ、この暗黒の建物のなかで、検挙されてから数週間後に、どなったりなぐったりばかりする連中と同じ制服のなかに、私があとかたもなく消えてしまうようなことのないよう、あとから来る人たちのためにいうべきことを伝え、生きぬき、生きのびる人たちとせめてひとときなりと、話ができるようにと、私に助力の手をさしのべてくれる人間、友人を見出すことができるとは、あまりに話がうますぎるではないか。 しかも、ほかならぬこういう時に! 廊下では処刑される人たちの名が大声で呼ばれていたし、血に酔った者は乱暴にどなり、どなることのできない者は恐怖にのどをつまらせていたのである。
ほかならぬこういう時、こういう瞬間にー いや、信じられない。 こんなことが真実であるはずはない。 ワナにきまっている。 こういう状況のなかで、自分の方から進んで私に手をさしのべるという人間には、どれだけの力のいることだろう! どれだけの勇気がいることだろう!
約一月過ぎた。 戒厳令は解かれ、どなり声はあまり聞かれなくなり、過酷なときどきは思い出に変わりつつあった。 また夜で、私はまた尋問から帰り、同じ看守とふたたび監房の前に立っていた。
「助かったようですね。 うまくいきましたか」彼はさぐるように私を見つめるのだった。「何もかも?」
私にはその質問の意味がよくわかった。 私は深く感動した。 しかもそのことがほかの何事よりも、彼の誠実さを私に確信させたのである。 そうする権利を内部に持っている人間でないと、そういう質問はできるものではない。 そのときから私は、彼を信用するようになった。 彼はわれわれの側の人間だったのである。」
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この手記が残ったのは、二人のチェコ人看守の決死的な助力があった。
posted by Fukutake at 08:06| 日記