「不要家族」 土屋賢二 文春文庫 2013年
年をとるとのんびりできるか p119〜
「年をとるとのんびりできると思っている人がいるかもしれないが、それは年を取ると賢明になると考えるのと同じぐらい大きな誤解である。
年を取ると生活が激変する。 老人ホームに入るのは、引っ越しや進学や就職よりもはるかに大きい変化だ。 寝たきりになるのは、幼児が歩けるようになるのに匹敵する変化だ。 家族関係も、ずっと権力を一手に握っていた女が、息子夫婦から除け者にされ、絶対専制君主からゴキブリの立場に追いやられたりするのだから激変と言ってもいい。
重大な決断を迫られる機会も増える。 老人ホームに入るべきか、自分や家族に介護が必要になったらどうするかなど、重大な決断と言えば牛丼にするかラーメンにするか程度だったころとは大違いだ。
かかる病気も重大になり、厳しい選択を迫られる。 治療法を選ぶにも、(1)成功すれば健康になるが、千人に一人は失敗する、(2)成功してもほどほどの結果しか得られないが、十万人に一人しか失敗しない、(3)死ぬのは免れるが重い副作用に苦しむ、の三つから選べと迫られたりするのだから、のんびりどころではない。
当然、健康診断を受けただけでも不安と緊張がつのり、多額の馬券を買ったときのようなスリルが味わえる。 だいたい、高齢になると、駅の階段を駆け上がるのも大きなギャンブルになる。 正月に餅を食べるのも、東京タワーのてっぺんで逆立ちするのと同じくらい生死を賭けたギャンブルになるのだ。
退職すると、勤務での失敗がなくなる分、のんびりできそうだが、仕事から解放され、やっと自分の時間がもてると思っていると、「努めていなんだから」という理由で雑多な仕事を押しつけられる。 しかも年齢を織り込んで「いい年なんだから」とか「子どもじゃないんだから」などと、わたしの弱点をついた要求となる。 だが、わたしは定年退職者として、授業することもできない公式に認定されているのだ。 授業もできない人間が本棚を直したり、研究室に置いてあった私物を段ボールから取り出すといった複雑な仕事ができるとなぜ思うのか。
わたしの場合、これに原稿執筆が加わる。 わたしに文章力がないことを知らないのか、何らかの目的で下手な文章を必要とするのか、原稿の依頼があるのだ。 以前はそういう依頼があると、定年になる十年前「いずれ定年退職したら」とその場しのぎの言い訳をしていたが、定年になってからそのつけがきた。 退職前は、勤めがなくなればいくらでも書けると思っていたのだが、実際には、勤務がなくても書けないことが分かり、締め切りに苦悩する毎日だ。」
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金閣寺炎上事件
「犯罪の心理学」ーなぜこんな事件が起こるのかー 中村希明 講談社 1990年
不可解な犯罪 p125〜
「金閣寺の妖しい美しさにとりつかれて、これをに火を放った青年僧の心理は三島由紀夫と水上勉とに『金閣寺』と『五番町夕霧楼』を書かせるインパクトをあたえ、後に「炎上』として映画化までされた。
国宝金閣寺の放火犯人であるHの精神鑑定を行ったのは、当時の京都大学医学部精神科の三浦百重教授であったが、これは貴重な国宝に放火した動機についてのHの説明が不可解だったからである。
ここで事件の概要を説明しておこう。
Hは水上勉の生家と同様な若狭の寺、舞鶴市にある末寺の住職の長男として生まれたが、彼が中学生在学中に父が死亡したので、昭和一八年に金閣の徒弟となり、二年後には大谷大学の予科に入学させてもらった。
元来、無口で強情で暗い性格であったが、事件の一年前の昭和二四年頃になると、囲碁にふけって勉強しなくなり、かろうじて予科を卒業したものの登校もしなくなり、住職の訓戒にも反抗的な態度を示すようになった。はじめは住職に目をかけられていたので、行くゆくは金閣寺の住職にもなれるかと期待していたHは、自分の将来に絶望し、この上は自分の愛する国宝金閣寺に火をつけて、そのなかでもろともに焼け死のうと、昭和二五年七月二日の未明に火をつけたのである。
三浦教授は、犯人を著しい性格の偏りがある「分裂気質」ではあるが、精神病者ではないと診断したので、懲役七年の実刑がいい渡された。
ところが刑務所に入所した直後から行動がおかしくなり、被害妄想のために独房に収容されることが多くなった。また肺結核を併発したのので医療刑務所に移送されたところ、被害妄想がますますひどくなって拒食し、衰弱が目立つようになった。
昭和三〇年に刑の執行が停止されて、彼の故郷にほど近い京都の洛南病院に移されると、安心したのかポツリポツリと主治医と話すようになったが、進行した肺結核のため翌年死亡してしまった。
この洛南病院の主治医であった小林淳鏡氏の見解では、Hの発病は、放火事件の一年前の性格変化の目立ってきた時期であろうと推定している。
分裂症のなかには、はっきりした異常体験がでる前に、このHのような性格変化で始まってくる「単純型」が含まれているので、発病の時期や、はたして発病しているかどうかの診断の確定が難しいのである、
自分がもっとも愛した聖美な金閣寺に放火するというHの矛盾した心理状態は、分裂症の主な症状の一つである「両価性(アンビバレンツ)=同一の対象に対して相反する感情、とくに愛情と憎悪が同時に存在している状態)」から説明されるべきものなのだろう。」
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不可解な犯罪 p125〜
「金閣寺の妖しい美しさにとりつかれて、これをに火を放った青年僧の心理は三島由紀夫と水上勉とに『金閣寺』と『五番町夕霧楼』を書かせるインパクトをあたえ、後に「炎上』として映画化までされた。
国宝金閣寺の放火犯人であるHの精神鑑定を行ったのは、当時の京都大学医学部精神科の三浦百重教授であったが、これは貴重な国宝に放火した動機についてのHの説明が不可解だったからである。
ここで事件の概要を説明しておこう。
Hは水上勉の生家と同様な若狭の寺、舞鶴市にある末寺の住職の長男として生まれたが、彼が中学生在学中に父が死亡したので、昭和一八年に金閣の徒弟となり、二年後には大谷大学の予科に入学させてもらった。
元来、無口で強情で暗い性格であったが、事件の一年前の昭和二四年頃になると、囲碁にふけって勉強しなくなり、かろうじて予科を卒業したものの登校もしなくなり、住職の訓戒にも反抗的な態度を示すようになった。はじめは住職に目をかけられていたので、行くゆくは金閣寺の住職にもなれるかと期待していたHは、自分の将来に絶望し、この上は自分の愛する国宝金閣寺に火をつけて、そのなかでもろともに焼け死のうと、昭和二五年七月二日の未明に火をつけたのである。
三浦教授は、犯人を著しい性格の偏りがある「分裂気質」ではあるが、精神病者ではないと診断したので、懲役七年の実刑がいい渡された。
ところが刑務所に入所した直後から行動がおかしくなり、被害妄想のために独房に収容されることが多くなった。また肺結核を併発したのので医療刑務所に移送されたところ、被害妄想がますますひどくなって拒食し、衰弱が目立つようになった。
昭和三〇年に刑の執行が停止されて、彼の故郷にほど近い京都の洛南病院に移されると、安心したのかポツリポツリと主治医と話すようになったが、進行した肺結核のため翌年死亡してしまった。
この洛南病院の主治医であった小林淳鏡氏の見解では、Hの発病は、放火事件の一年前の性格変化の目立ってきた時期であろうと推定している。
分裂症のなかには、はっきりした異常体験がでる前に、このHのような性格変化で始まってくる「単純型」が含まれているので、発病の時期や、はたして発病しているかどうかの診断の確定が難しいのである、
自分がもっとも愛した聖美な金閣寺に放火するというHの矛盾した心理状態は、分裂症の主な症状の一つである「両価性(アンビバレンツ)=同一の対象に対して相反する感情、とくに愛情と憎悪が同時に存在している状態)」から説明されるべきものなのだろう。」
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posted by Fukutake at 11:43| 日記