「子どもの使い」 宮脇俊三
「宮ア市定全集 21」ー日本古代ー 岩波書店 付録「月報16」掲載文
「宮崎先生について私が何か書くなどとは、思ってもみないことであった。 私は先生の業績について云々できる学はないし、先生と学問的な会話を交わしたこともない。 一編集者として事務的に先生に接しただけである。
昭和三十四年に中央公論社は創業七十五周年記念出版として『世界の歴史』を企画した。 担当は私になった。 私は恩師の村川堅太郎先生を訪ね、「読みものとして面白い型破りの世界史を出版したいのですが」と相談した。 「もう一人編集者として池島信平君にも入ってもらいましょう」と言われたのには、びっくりした。
池島さんは村川先生より三年後輩の東大西洋史学出身の秀才であったが、大学に残れとのすすめを断って文藝春秋に入社した人で、名編集者として知られ、当時は編集局長であった。 その文藝春秋の顔とと言うべき池島さんに、ライバルの中央公論社の大きな企画の監修者になってもらおうというのだから業界の常識からすれば破天荒な案である。
監修者の会合で、『世界の歴史』のうち、東洋史は五巻で、「宋と元」の巻は宮崎市定先生に編集と執筆をお願いすることとになった。
私は宮崎先生の著作を何ひとつ読んでいなかった。 私は大いに慌てたが、さいわい岩波新書に『雍正帝』があったので、さっそく読んだ。これがめっぽうおもしろい。 まじめな専制君主の超人的に多忙な日常が活写されていて、私は雍正帝の執務室にひきこまれた。 後宮の美女と宦官に囲まれて遊蕩の日々を送っていたのだろうと粗末な先入観を抱いていた私は、目のウロコが落ちる思いがした。 私は新書一冊を読んだだけで宮崎先生のファンになってしまった。
某日、京都で東洋史関係の執筆者の先生がたに集まっていただいて会合が開かれた。あんなにおもしろい『雍正帝』を書く先生は、どんなに愉快な人かと期待していると、丸坊主の禅僧のような人が、やむをえぬ浮世のつき合い、といった風で席についた。 それが宮崎先生であった。 その席で、先生がたに無理難題に質問を浴びせたが、宮崎先生は黙然と坐ったまま、一言もおっしゃらなかった。 それが無気味であった。
第一巻、第二巻と毎月の刊行は進んだ。 ところが六巻目の「宋と元」の編集者責任者であり、その巻の半分(約三五〇枚)を執筆するはずの宮崎先生はパリ大学の客員教授として招かれ、パリに移り住んでしまった。 もとより締切りまでには原稿を送ってくださるとの約束ではあったが。 わたしはパリへ飛んだ。それから数日後、約三五〇枚の原稿を頂戴した。 それは「原稿の模範」とも言うべき完璧なものであった。字がきれいでゴチャゴチャした書き加えもなく、原稿用紙の桝目にキチンと一字ずつおさまっている。 字数をかぞえる必要もない。 こんな原稿をくださる著者ほど編集者にとってはありがたい存在はない。 すぐさま印刷所に渡してしまえるからである。
その後「中公新書」を創刊することになった。しかし、宮崎先生の『科挙』は、執筆のお願いと原稿頂戴のときに二度お眼にかかっただけで、「子どもの使い」にすぎなかった。」
(元中央公論社社員、紀行作家)
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