「漱石書簡集」 三好行雄編 岩波文庫
子規追悼 高浜虚子あて 明治三十五(1902)年 p114〜
「敬。子規病状は毎度御恵送の『ホトトギス』にて承知致候所、終焉の模様は逐一御報被下奉謝候。小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申すまじと存候。これは双方とも同じやうな心持にて別れ候事故今更驚きは不致、ただ気の毒と申すより外なく候。「倫敦通信」の儀は子規存生中慰籍かたがたかき送り候筆のすさび、取るに足らぬ冗談と御覧被下たく、その後も何かかき送りたくとは存候しかど、御存の通りの無精ものにて、その上時間がないとか勉強せねばならぬなどと生意気な事ばかり申し、ついつい御無沙汰をしてゐる中に故人は白玉楼中の人と化し去り候やうの次第。誠に大兄らに対しても申し訳なく、亡友に対しても慚愧の至に候。
同人生前の事につき何か書けとの仰せ承知は致し候へども、何をかきてよきや一向わからず、漠然として取り纏めつかぬに閉口致候。
さて、小生来(きたる)五日にいよいよ倫敦発にて帰国の途に上り候へば、着の上久々にて拝顔、種々御物語可仕(つかまつるべく)万事はその節まで御預り願ひたく、この手紙は米国を経て小生よりも四、五日先に到着致す事と存候。子規追悼の句何かと案じ煩ひ候へども、かく筒袖姿にてビステキのみ食いをり候者には容易に俳想なるもの出現仕(つかまつ)らず、昨夜ストーヴの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりはむしろ無理やりに得さしめたる次第に候へば、ただ申し訳のため御笑草として御覧に入れ候。近頃の如く半ば西洋人にて半日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候。
文章などかき候ても日本語でかけば西洋語が無茶苦茶に出て参候。また西洋語にて認(したた)め候へばくるしくなりて日本語にしたくなり、何とも始末におへぬ代物と相成候。日本に帰り候へば随分の高襟党(はいからとう)に有之(これある)べく、胸に花を挿して自転車へ乗りて御目にかける位は何でもなく候。
倫敦にて子規の訃を聞きて
筒袖*や秋の柩(ひつぎ)にしたがはず
手向くべき線香もなくて暮の秋
霧黄なる市に動くや影法師
きりぎりす*の昔を忍び帰るべし
招かざる薄*(すすき)に帰り来る人ぞ
皆蕪雑*、句をなさず。叱正*。(十二月一日 倫敦、漱石拝)」
筒袖* 漱石用語、洋服
きりぎりす* 薄* 子規とオマージュの交換した青春の交遊が回想される。
蕪雑* 雑然として整っていないさま。
叱正* 文章の欠点を遠慮なく指摘、訂正すること。
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間引きの悲劇
「復刻版 村の若者たち」 宮本常一 家の光協会 2004年
せまい世界の余り者 p48〜
「戦前わたしは村々をあるいて、堕胎間引きの話が出れば、そこでつつみ隠しのない話がきかれると思っていた。戦前には、堕胎間引きは禁句になっていた。仮にそういうことをひそかにおこなう者があるにしても、それを密告するような者はいなかったし、また、よそ者などに、そういうことを話す者はめったになかった。それを重い口から話してくれるようになれば、もう相手に警戒する気持ちをなくしていることがわかった。
昭和一二年の冬であったとおぼえている。わたしは青森県の東南の小さい町で、盲目の老人から、いろいろと昔の暮らしについてきいたことがあった。記憶のよい老人で、長い間の村の変遷をよくおぼえていたが、この老人がまだ四、五才のころ、この地方に飢饉があって、村はずれのワラス河原へ捨てられたことがあるという。飢饉があると、村ではまず嬰児をそこへ捨てたそうである。この老人はもう嬰児ではなかったが、やはり食う口を一つでも減らすために、そこへ捨てられたそうである。
捨てられると、歩くことはできるのだが、自分の家へ歩いてかえってもよさそうなものであるが、親からよくよく言いきかされているので、子どもながらにもかえる気にもなれず、そこで三日三晩泣くらしたという。周囲に捨てられている子は、たいてい一夜も泣いていると、そのまま息たえて死んでいったが、少し年をとっていたその子は、三日泣いても死ななかった。それを通りあわせた人が見て、三日も生きていたのだからとて、自分の家へつれて帰って育てることにした。ところが三日も泣きつづけていたために、目がすっかり見えなくなった。
それから七〇年あまり、この老人はこの村に生きつづけてきたのであるが、目は見えなくても生きていた方がよかったと、しみじみはなしてくれたのであった。そして、その周囲に、その後もひそかにくりかえされてきた悲惨なできごとについて、語ってくれたのであるが、そのようなことが、昭和一二年当時まで、まだかすかながらつづいてきているとのことであった。
それから三年ほどすぎた昭和一五年に、わたしは山形県の山中で、まびきそこねられた老人にあったことがある。
「わたしの首のところを見てください。首をねじられたあとがあるでしょう。そのときから、すこし首がまがったままです」
と、その老人ははなした。三男に生まれて、当然まびかれる運命にあい。産婆に首をねじられたけれど、息がたえなかったので育てられることになったという。温厚で、考え深い人であり、わたしがおとずれた時には村会議員もしていた。それほどの人が、生まれ出るときには、いのちを断たれようとさえしたのである。わたしは、そのときの旅で、村々の暗い話をいろいろきいてあるいた。そして、生きていくことが、どんなにむずかしいものであるかを、しみじみ考えてみたのである。」
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今生きている幸せ
せまい世界の余り者 p48〜
「戦前わたしは村々をあるいて、堕胎間引きの話が出れば、そこでつつみ隠しのない話がきかれると思っていた。戦前には、堕胎間引きは禁句になっていた。仮にそういうことをひそかにおこなう者があるにしても、それを密告するような者はいなかったし、また、よそ者などに、そういうことを話す者はめったになかった。それを重い口から話してくれるようになれば、もう相手に警戒する気持ちをなくしていることがわかった。
昭和一二年の冬であったとおぼえている。わたしは青森県の東南の小さい町で、盲目の老人から、いろいろと昔の暮らしについてきいたことがあった。記憶のよい老人で、長い間の村の変遷をよくおぼえていたが、この老人がまだ四、五才のころ、この地方に飢饉があって、村はずれのワラス河原へ捨てられたことがあるという。飢饉があると、村ではまず嬰児をそこへ捨てたそうである。この老人はもう嬰児ではなかったが、やはり食う口を一つでも減らすために、そこへ捨てられたそうである。
捨てられると、歩くことはできるのだが、自分の家へ歩いてかえってもよさそうなものであるが、親からよくよく言いきかされているので、子どもながらにもかえる気にもなれず、そこで三日三晩泣くらしたという。周囲に捨てられている子は、たいてい一夜も泣いていると、そのまま息たえて死んでいったが、少し年をとっていたその子は、三日泣いても死ななかった。それを通りあわせた人が見て、三日も生きていたのだからとて、自分の家へつれて帰って育てることにした。ところが三日も泣きつづけていたために、目がすっかり見えなくなった。
それから七〇年あまり、この老人はこの村に生きつづけてきたのであるが、目は見えなくても生きていた方がよかったと、しみじみはなしてくれたのであった。そして、その周囲に、その後もひそかにくりかえされてきた悲惨なできごとについて、語ってくれたのであるが、そのようなことが、昭和一二年当時まで、まだかすかながらつづいてきているとのことであった。
それから三年ほどすぎた昭和一五年に、わたしは山形県の山中で、まびきそこねられた老人にあったことがある。
「わたしの首のところを見てください。首をねじられたあとがあるでしょう。そのときから、すこし首がまがったままです」
と、その老人ははなした。三男に生まれて、当然まびかれる運命にあい。産婆に首をねじられたけれど、息がたえなかったので育てられることになったという。温厚で、考え深い人であり、わたしがおとずれた時には村会議員もしていた。それほどの人が、生まれ出るときには、いのちを断たれようとさえしたのである。わたしは、そのときの旅で、村々の暗い話をいろいろきいてあるいた。そして、生きていくことが、どんなにむずかしいものであるかを、しみじみ考えてみたのである。」
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今生きている幸せ
posted by Fukutake at 09:02| 日記