「井伏鱒二全集 第十一巻」(随筆) 筑摩書房 1965年
おふくろ p56〜(旧仮名遣いを直しました)
「私の母は八十六歳だが、まだ割合と達者である。 達者というよりも、去年の秋から今年の春にかけては、例年と違って寝込みもしなかった。 毎年、冬になると蟄居するが、この冬は割合に元気なところを見せていた。
先月、そういう手紙を田舎の義姉から私の家内によこしてきた。 暖冬であったせいだろうか。
私は二年に一度か三年に一度ぐらい、ついでがあったら田舎の生家に寄るように努めている。 と云っては語感がよくないが、私はお袋の愚痴を聞くのが嫌だから、わざわざ出かけて行こうという気持は滅多に起こさない。 私が帰って行くたびに、お袋は憂鬱な気持を誘い出すような口をきく。 それが型にはまったようにきまっている。
「ますじ」と、十二年前か十三年前、私が久しぶりに帰ったとき、義姉や甥の一緒にいる夕飯の席でお袋が云った。 「お前、東京で小説を書いているそうななが、何を見て書いとるんか。」
「何を見て書いとるか云っても」と私は、大してまごつかないで返答した。 「いろんな景色や川や山を見て、それから歴史の本で見た話や、人に聞いた話や、自分の思いついたことや、自分が世間で見たことや、そんなの書いとるんですがな。」
「それでも、何とかお手本を置いて書いとるんぢやなかろうか。」
「それは本を読めば読むほど、よい智慧が出るかもしれんが。」
「字引も引かねばならんの。 字を間違わんように書かんといけんが。 字を間違ったら、さっぱりじゃの。」
お袋はしばらく黙っていたが、説教はこれだけでは止そうと思ったのだろう。
「よし子」と、義姉に云った。 「ますじに、酒を飲ませてやってくれ。 あんまり飲むと毒じゃから、徳利に一つだけ酒をわかしてやってくれ。」
義姉は竈の下を燃やしつけて、戦争前に近所の人が除隊記念にくれた銚子を鍋のなかに立てて燗をした。 盃も同じく除隊記念にもらった土産品で、連隊旗と海軍旗を交叉させた図が書いてある。 ぎらぎら光る水金で第四十一連隊という文字など書いてある。 この家では古い徳利や猪口などはどこかに蔵っていて、法事のときにも来客のときにも決して使おうとしないのだ。
私は三本や四本の酒では酔えないが、お袋は私が銚子の酒を半分ぐらいまで飲むと意見するような口をきいた。
「ますじ。 そうそう酒を飲むと毒じゃががな。 人が見ても、みっともないし、酒飲みは酒で身を誤るというての。」
それで私は一本だけで止そうとしたが、母はそれで満足するものではない。
「お前は酒が飲めるというのに、一つだけで止めることはあるまいが。 飲めるのに、無理せんでもよかろうに。 飲めるんぢゃもの、もう一つだけなら飲んでもよかろうが。 もう一つ酒をわかしてやってくれ。」
お袋は酒飲みの倅に酒を飲ませたいが、酒なんか見るのも嫌な義姉に遠慮して余計なことを云ったのだろう。」
初出 昭和三十五年七月、『中央公論別冊』に発表。
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目に見えるよう。
ルソーの夢想
「孤独な散歩者の夢想」 ルソー 青柳瑞穂=訳 新潮文庫
第九の散歩 p152〜
「僕が子供を孤児院に入れたという非難は、わずかな言い回しから、残忍な父親だとか、子供がきらいだとかとかいう非難にすぐ悪化したのだということがわかる。 しかしながら、このような行動を僕に決心させた一番のことは、これをしなければ、子供たちにとって千層倍も悪くなる運命、この方法以外には避けがたい運命を恐れたためだった。 かりに僕が、子供たちの行く末にもっと無関心だったら、それに、どっちみち自分の手で育てることははできぬとすれば、僕のような境遇では、子供を甘やかしてしまう母親の手や、子供を奇形児にしてしまう母親の家庭に委ねたはずだった。 そんなことをしたら大変だった。 思っただけでもぞっとする。 そしたら、僕の場合、人々が僕の子供たちをどんなふうにしてしまったか、それはおそらくマホメットがセイドを台なしにしたくらいではなかったろうと思う。 そして、このことについて、その後、人々が僕に罠を仕掛けたことを見れば、その計画が前から仕組まれていたことがわかる。 実のところ、当時の僕はこのような残酷な陰謀を予知するどころではなかったのである。 それどころか、子供たちにとって最も危険の少ない教育は、孤児院のそれだということを知っていたのである。 それで僕は彼らをそこへ入れた。 もしそういう事情なら、僕は今でもやっぱり、前ほどの危惧さえなくてそうするだろうと思う。 そしてたとえ習慣が天性を助けることのいかに微小であったにせよ、僕くらい子供に親切だった父親はなかったろうと思う。
僕が人間の心を知るうえにおいていくばくかの進歩をしたとすれば、子供を見たり観察したりする楽しさが、僕にこの知識を得させてくれたのである。 この同じ楽しさが、青春時代においては、人間の心を知るうえに一種の障害になっていたのだった。 というのは、そのころの僕は、子供たちと一緒になって、あまりにも楽しく、嬉々として遊んでいたので、彼らを研究することなど念頭になかったのである。 しかし年老いるにしたがって、僕の老いぼれ顔が彼らを不安にするのを見たとき、僕は彼らの邪魔をするのを差控えたのである。 僕は彼らの歓びをみだすよりは、自分の楽しみを断念するほうがよかったのである。 そこで、彼らの遊戯や、他愛のないいたずらを見て楽しむだけで、甘んじたのであるが、はからずもこの観察によって、これまでわが国のいかなる学者も何ら知るところのなかった、自然からくる、最初の真の動作について大いに啓発されたので、これによって僕は、自分のはらった犠牲の償いをしたわけだった。 僕がこの調査に没頭したこと、それも楽しかたので、つい綿密にやったという証拠は、これを自分の著書の中に記入しておいたつもりである。 それにしても、「新エロイーズ」や「エミール」が、子供を愛さない男の作物であるなどとは、とうてい信ずべからざることであろう。」
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不思議な文章
第九の散歩 p152〜
「僕が子供を孤児院に入れたという非難は、わずかな言い回しから、残忍な父親だとか、子供がきらいだとかとかいう非難にすぐ悪化したのだということがわかる。 しかしながら、このような行動を僕に決心させた一番のことは、これをしなければ、子供たちにとって千層倍も悪くなる運命、この方法以外には避けがたい運命を恐れたためだった。 かりに僕が、子供たちの行く末にもっと無関心だったら、それに、どっちみち自分の手で育てることははできぬとすれば、僕のような境遇では、子供を甘やかしてしまう母親の手や、子供を奇形児にしてしまう母親の家庭に委ねたはずだった。 そんなことをしたら大変だった。 思っただけでもぞっとする。 そしたら、僕の場合、人々が僕の子供たちをどんなふうにしてしまったか、それはおそらくマホメットがセイドを台なしにしたくらいではなかったろうと思う。 そして、このことについて、その後、人々が僕に罠を仕掛けたことを見れば、その計画が前から仕組まれていたことがわかる。 実のところ、当時の僕はこのような残酷な陰謀を予知するどころではなかったのである。 それどころか、子供たちにとって最も危険の少ない教育は、孤児院のそれだということを知っていたのである。 それで僕は彼らをそこへ入れた。 もしそういう事情なら、僕は今でもやっぱり、前ほどの危惧さえなくてそうするだろうと思う。 そしてたとえ習慣が天性を助けることのいかに微小であったにせよ、僕くらい子供に親切だった父親はなかったろうと思う。
僕が人間の心を知るうえにおいていくばくかの進歩をしたとすれば、子供を見たり観察したりする楽しさが、僕にこの知識を得させてくれたのである。 この同じ楽しさが、青春時代においては、人間の心を知るうえに一種の障害になっていたのだった。 というのは、そのころの僕は、子供たちと一緒になって、あまりにも楽しく、嬉々として遊んでいたので、彼らを研究することなど念頭になかったのである。 しかし年老いるにしたがって、僕の老いぼれ顔が彼らを不安にするのを見たとき、僕は彼らの邪魔をするのを差控えたのである。 僕は彼らの歓びをみだすよりは、自分の楽しみを断念するほうがよかったのである。 そこで、彼らの遊戯や、他愛のないいたずらを見て楽しむだけで、甘んじたのであるが、はからずもこの観察によって、これまでわが国のいかなる学者も何ら知るところのなかった、自然からくる、最初の真の動作について大いに啓発されたので、これによって僕は、自分のはらった犠牲の償いをしたわけだった。 僕がこの調査に没頭したこと、それも楽しかたので、つい綿密にやったという証拠は、これを自分の著書の中に記入しておいたつもりである。 それにしても、「新エロイーズ」や「エミール」が、子供を愛さない男の作物であるなどとは、とうてい信ずべからざることであろう。」
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不思議な文章
posted by Fukutake at 08:36| 日記