2022年08月14日

自信なき自信

「不要家族」 土屋賢二 文春文庫 2013年

 自信 p125〜

 「われわれのもっている自信はもろい。 ちょっとした一言か表情の変化で自信は簡単に崩れ落ちる。 それほど人間は自信をもてない不安な存在なのだ。
 それにしては、われわれは根拠のない自信を簡単にもってしまうのではなかろうか。 日本がサッカーで勝ったというだけの理由で、サッカーに何の関係もない人が自分の価値が高まったように錯覚して自信を深める。 いつになく早起きして机の上を片づけただけでも、自信はわいてくる。早起きや机上の整理はふだんの行いには無関係なのに、自分には一点の後ろめたいところもない清廉潔白の身であるような気になり、正しい道を歩んでいるという自信をもつ。

 年を取ったというだけでも自信はもてる。 中高年になると、生まれてから時間がたったというだけなのに、若者を指導する能力と資格が身についたような気になるのだ。 会社で役職につけば、会社の外でも自分はひとかどの人間になったという自信をもつ。 そういう男を見てバカにする女も、中年女だというだけで自信をもっている。 たしかに中年女には若者や男が愚かに見えるのだろうが、だからといって自分が正しいとはかぎらない。それなのに絶対の自信をもって周りの者を糾弾しているのだ。

 また、われわれは自分の意見にだれも反対しなければ、自分が正しいという自信をもつが、反対意見の有無と自分が正しいかどうかは無関係である(昔は地球が平だという意見に全員が賛成していたのだ)。 わたしの妻は、わたしが逆らわないという理由で、自分は正しいと自信を深めているが、本来、自分が正しいかどうかは相手が逆らうかどうかとは無関係である。

 このように、根拠のない自信は簡単にもってしまうが、では「根拠のある自信」はどうだろうか。 たとえばボクシングの世界チャンピオンは強さに自信をもっていそうだが、次の試合に勝てる保証はなく、いつ王座を奪われるか不安になるという。 だからこそ、毎日猛練習をするのだ。 もし本当に自分が強いという自信をもっていたら、相手を倒して大喜びするようなことはないはずだ。 スポーツや音楽の第一人者でも本番前には緊張するが、それは結果に自信がもてないからだ。

 このように「根拠のある自信」をもって当然の人が、自信をもてないのだ。
以上のことから、わたしは、人間は根拠のない自信しかもてないと、自信をもって主張したい。」

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根拠のない自信をもっているおかげで、毎日ぐっすり眠れる。

posted by Fukutake at 07:23| 日記

戦国三傑の心理分析

「宮ア市定全集 21」ー日本古代ー 岩波書店 1993年

近世の幕開け p395〜

 「とめどもない底無し沼のような分裂に陥った戦国時代の日本も、窮すれば通ず、 信長、秀吉、家康の三代にわたる政権のリレーで、ようやく再統一が成し遂げられ、統一政治が軌道にのることになった。
 この分裂戦国の統一が、近畿政権を中心として推進されたのには理由がある。 近畿地方は何と言っても日本交通の中心に位置する。 そして同時に経済の中心、文化の中心でもある。 地方大名の今川や、武田や、上杉やが地元を固めると無理を押してでも上洛を試みたのは、別に勤王の志やみ難かったからではなく、日本の中心に位して、その経済力と文化とを使って天下に号令したかったからである。 この点で近畿に近く位した、織田、豊臣、徳川は最も多くの地の利を得ていた訳でである。

 ところで近畿地方がそういう地の利を得ながら、三人の征服者が近畿地方自身の中から出ないで、その周辺から出たことは一考を要する問題である。 そもそも征服者は独裁者である。 独裁者の資格は最も複雑な心理的性格を有することである。 信長のごときはとかく、直情径行の一徹者のように思われがちであるが、決してそうでなく、一方には利害の計算に鋭敏な利口者であった。 秀吉は太っ腹であると同時に、それ以上に細心であった。 家康に至っては最も複雑な性格の持ち主で、両極端を一身に具備してしかも破綻を現さなかった。 こういう複雑な性格は得てして境界線上において養成されるものである。 漢の高祖や明の太祖が南北中国の境界線上に生まれ、スターリンがヨーロッパとアジアの境に、ヒトラーが独澳国境に生まれたのは決して偶然ではない。 ところで当時の尾張、三河という所は東日本と西日本の境界線上にあった。

 経済の上でも東国は金使い、西国は銀使いと言われたが、尾張はちょうどその境界線に当たる。 その他、人民の気風まで東と西とで異なるが、尾張の人はその両方の性格を兼ね備えていたのである。 こういう説明をすると、甚だ個人の能力に重きをおきすぎるように聞こえるが、私に言いたいのはこの三人に限ったことではない。 彼等のグループ全体がいずれもそういう気象をもっていたのだ。 言いかえれば、もし信長や秀吉がもっと早く死んだとしても、彼等のグループの中からそれに代わる者が出ただろうということである。 前田利家や明智光秀や、或いは柴田勝頼でも、運さえよければ天下取りになれる器量を具えていた。 そして戦いがいよいよ終盤に入ると、最後の東西天下分け目の戦いが、尾張に近い関ヶ原で行われた。

 もう一つ注意すべき事実は、分裂戦国の統一のために、ヨーロッパから伝わった鉄砲の果たした役割が大きかったことである。 織田勢が精鋭無比と称せられた武田勢を長篠で打ち破ったのは鉄砲の威力であり、これによって信長の覇権が確立した。鉄砲なるものこそ、ヨーロッパ近世文化の尖兵である。そして鉄砲を利用する段になれば、商工業の進んだ近畿地方が断然優位に立つのは自然の成行である。 この武器は戦争を一段と苛烈なものにしたが、同時に勝敗を徹底的なものとしで、勝者の威力を確立したのである。」

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地の利、人の利、時の利、天の利

 

posted by Fukutake at 07:17| 日記