「妖怪・怪物」ー東洋文庫ふしぎの国ー 荒俣宏=編 平凡社 1989年
『東方見聞録』より p96〜
「パスマン王国
ファーレック王国を去ってパスマン王国に入る。これは独立した王国で、独自の言語を有している。住民は野獣とまではゆかなくとも、とにかく掟を知らぬ者たちである。彼等はカーンの臣下だと称しているが、カーンの軍隊も到達しえられない遠隔地に住んでいるので、別段に正規の貢物を献上することもなしていない。それにもかかわらず彼等は皆カーンの隷臣だと自称し、この地を通過する旅行者に託して時たま美麗珍奇な品物、特にこの地の特産たる蒼鷹を贈答品としてカーンに届けることがある。
この地方には野生の象や、象よりはやや小型の一角獣が多数に棲息している。この一角獣は、毛が水牛に類し足が象に似ており、額の中央に非常に大きな黒い角を持つ動物であるが、この角では他を傷つけないで、舌と膝とで危害を加える。それというのも、この舌にはとても長い鋭いとげがはえていて、怒りたけると相手を打倒して膝下に押さえつけ、この舌で傷つけるのである。その頭は野猪と同じく、常に伏し目になって大地に向かっている。泥沼を好み、その中にすんでいる。見るからに恐ろしげなる動物であって、ヨーロッパなどで空想されたり物語られたりしているような、あの乙女の膝に自ら身を投じて捕捉される一角獣などとは、およそ似て似つかぬものである。繰り返して断言するが、それはヨーロッパ人が伝えているようなものとは全く正反対の動物なのである。
この地には猿がとても多いが、その種類はさまざまで、とくに珍しい種も少なくない。また鳥のようにまっ黒な大鷹がいるが、これは鷹狩り用としてかっこうである。
なおもう一つ皆さんに知っておいていただきたいことは、ある旅行者たちが侏儒(こびと)を連れ帰って、これは自分がインドから直接連れて来たものだと主張するが、それは全くのでたらめ事だということである。それというのは、彼等が人間だと称するこれらの侏儒は、実はこの小ジャヴァ島で次のようにして製作されたものにすぎないからである。すなわちこの島には人間によく似た顔つきをした一種の小型の猿が棲息するのを、彼等旅行者が捕獲し、ある種の膏薬を用いて、生殖器の部分以外の体毛をすべて落とし去り、さらにこの猿の顎に長い髪を植えつけ、乾かして顎鬚に似せるのである。皮膚が乾くと毛を植えたあなが収縮するから、まるで自然にはえた鬚そっくりに見える。なおその上で、手足や五体の様子がまた十分に人間らしくないから、これを引き伸ばしたり型にはめたりして人間の四肢五体に似せしめる。
この工程が終わると、今度はこの猿を日にさらし、樟脳などを塗抹して何とか人間に見まがうまでに工作するのである。いわゆる侏儒と称せられるものは、右に述べたようにして人工的に作製されたものにほかならないから、全く信用のできぬごまかしである。それに元来そんな小さな体躯をした矮人なんかは、インドはおろか、それ以外のどんな未開国に行っても、いまだかつてお目にかかったことがないからである。」
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フランス人とは
「ヴァレリー全集 12 ー現代社会の考察ー」 筑摩書房
フランス人の多様性 (佐藤正彰訳) p121〜
「フランス人は多種多様である。
一人の外国人が或るとき私に言った。「あなた方、フランス人は…。」
ー失礼ですが、」と私はこれに言った。「お言葉の途中済みませんが、おっしゃるのはどういう意味でしょうか。先に進む前に、道を明るくしましょう。そのあなた方フランス人というのが、私にははっきりしないのです。お話のなかで、民法の定義をするあの抽象的なフランス人が問題ということならば、どうぞそのままお話し下さい。かまわず先をお続け下さい。けれどももしあなたが血の通ったフランス人のことを私におっしゃり、彼らを一語に包括していろいろの総体的な判断をなさろうとのおつもりならば、予め申上げるのをお許し願いたい。フランス人はお互い同士あまり似ていません。という意味は、行き当たりばったりに取りあげた二人のフランス人が相似ることは、世界のあらゆる国民の間で同じようなどんな籤引きをしてみる際よりも、見込み薄であるということです。劇場で、翰林院で、或いはどんな集会であろうと、私は自分の周囲を一瞥しさえすれば、著しく異なる多くの型(タイプ)や訛(なま)りや反応の仕方を観てとるに十分です。それは、これ以上複合した国民はいないからです。われわれのところには、ケルト人、イベリア人、ゲルマン人、リグリア人やサラセン人、北欧海賊(ノースマン)や韃靼人の多少の名残が居るとは、私は申しますまい。なぜなら、私はこれらの語の正確な意味を承知しているとあなたに断言するのは、憚られましょうから。
私は明らかならぬ民族の問題のなかに迷い入ってしまいます(私だけに限らないが)。しかし私にはよくわかります、ロレーヌ人はバスク人ではないし、プロヴァンス人、ピカルディ人、ブルターニュ人とカタロニア人、フランドル人とリムーザン人、コルシカ人とアンジュ人とは、深く相似ていないことが。その結果、奇妙な統一が生じ、それは外見的にはすこぶる神秘的に見えます。この統一は、時として、長期間継続された政治の結実とされていますが、しかしこの政治なるものも、もし領土の形態と構造によって示唆もしくは強課されなかったならば、目的は達しはしなかったことでありましょう。フランスがフランス人を作るのです。
<民族主義>なるものは、無力と恐怖の表現であり、これは消化されたり、同化されたり、崩壊されたりすることを畏怖する住民に似つかわしい理論であることは、明瞭です。なぜなら、その住民は、自分の接触しはじめる外来要素を、自身消化し或いは同化する力が、自分に根本的に無いと感じるからです。彼らはそれらに対しては、二つだけしかこれを免れる道乃至は自己を全うする道を考えつきません。除き去るか、隷属させるか。
私は次の指摘を以て結びとします。もし諸々の民族があり、民族の純血を語ることができるものならば、一民族が純血なら純血なほど、ますますそれを構成する個人は、互いに相似ているであることは、明白です。しかし個人の相似ということは、受動性、総体的服従、一人一人別個に反撥することの不可能、そしてそれらの運命的結果たる軽信を齎すのであり、この軽信こそ、私見によれば、最も唾棄すべき画策と企図との必要な基礎なのであります。」
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フランス人の多様性 (佐藤正彰訳) p121〜
「フランス人は多種多様である。
一人の外国人が或るとき私に言った。「あなた方、フランス人は…。」
ー失礼ですが、」と私はこれに言った。「お言葉の途中済みませんが、おっしゃるのはどういう意味でしょうか。先に進む前に、道を明るくしましょう。そのあなた方フランス人というのが、私にははっきりしないのです。お話のなかで、民法の定義をするあの抽象的なフランス人が問題ということならば、どうぞそのままお話し下さい。かまわず先をお続け下さい。けれどももしあなたが血の通ったフランス人のことを私におっしゃり、彼らを一語に包括していろいろの総体的な判断をなさろうとのおつもりならば、予め申上げるのをお許し願いたい。フランス人はお互い同士あまり似ていません。という意味は、行き当たりばったりに取りあげた二人のフランス人が相似ることは、世界のあらゆる国民の間で同じようなどんな籤引きをしてみる際よりも、見込み薄であるということです。劇場で、翰林院で、或いはどんな集会であろうと、私は自分の周囲を一瞥しさえすれば、著しく異なる多くの型(タイプ)や訛(なま)りや反応の仕方を観てとるに十分です。それは、これ以上複合した国民はいないからです。われわれのところには、ケルト人、イベリア人、ゲルマン人、リグリア人やサラセン人、北欧海賊(ノースマン)や韃靼人の多少の名残が居るとは、私は申しますまい。なぜなら、私はこれらの語の正確な意味を承知しているとあなたに断言するのは、憚られましょうから。
私は明らかならぬ民族の問題のなかに迷い入ってしまいます(私だけに限らないが)。しかし私にはよくわかります、ロレーヌ人はバスク人ではないし、プロヴァンス人、ピカルディ人、ブルターニュ人とカタロニア人、フランドル人とリムーザン人、コルシカ人とアンジュ人とは、深く相似ていないことが。その結果、奇妙な統一が生じ、それは外見的にはすこぶる神秘的に見えます。この統一は、時として、長期間継続された政治の結実とされていますが、しかしこの政治なるものも、もし領土の形態と構造によって示唆もしくは強課されなかったならば、目的は達しはしなかったことでありましょう。フランスがフランス人を作るのです。
<民族主義>なるものは、無力と恐怖の表現であり、これは消化されたり、同化されたり、崩壊されたりすることを畏怖する住民に似つかわしい理論であることは、明瞭です。なぜなら、その住民は、自分の接触しはじめる外来要素を、自身消化し或いは同化する力が、自分に根本的に無いと感じるからです。彼らはそれらに対しては、二つだけしかこれを免れる道乃至は自己を全うする道を考えつきません。除き去るか、隷属させるか。
私は次の指摘を以て結びとします。もし諸々の民族があり、民族の純血を語ることができるものならば、一民族が純血なら純血なほど、ますますそれを構成する個人は、互いに相似ているであることは、明白です。しかし個人の相似ということは、受動性、総体的服従、一人一人別個に反撥することの不可能、そしてそれらの運命的結果たる軽信を齎すのであり、この軽信こそ、私見によれば、最も唾棄すべき画策と企図との必要な基礎なのであります。」
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posted by Fukutake at 07:48| 日記