2022年08月12日

説明させよ

「「分かりやすい教え方」の技術」 ブルーバックス 藤沢晃治 講談社

人に教えろ p169〜

 「「教える」場面では、先生が生徒に説明している状態が多くなります。しかし「教える」でより重要なのは、逆に「生徒に説明させる」ことなのです。

 私はこれまで「教える」場面で数多くの失敗をしてきました。それらの失敗を思い返して見ると、その大部分は「教える」という行為を、先生から生徒へに片方向コミュニケーションと誤解していたことが根本原因でした。

 薬学専攻のある大学生から聞いた話ですが、その大学では、予備校の講師による国家試験対策の授業があるそうです。そして「予備校の先生の授業は、普通の授業よりもおもしろくて分かりやすい」とその薬学生が言います。
 とくに印象深かったのは予備校の講師の次のような話だそうです。。
「覚えたければ、どんどん人に教えなさい。人に教えれば教えるほど、自分の理解が深まります。さらに、自分がまだ理解できていない点がどこなのか、ハッキリと自覚できます。」

 私はこの話を聞いて、自分の過去の失敗の原因をはっきりと自覚できました。キーは「逆方向」だと気づいたのです。「教える」とは、先生から生徒に知識や技能を「与える」ことではなく、生徒から「引き出す」ことだったのです。

 「教える」とは、普通「生徒に知識や技能を与える」ことですから、先生が生徒に説明しているシーンが連想されます。しかし、生徒がよく学ぶためには、逆に生徒から「引き出す」ことが重要だと、予備校の講師は言っているわけです。

 たとえば「ドイツ語をマスターすることは、英語よりはるかにむずかしいと思いました」を意味する英語は、「I found German much more difficult to learn than English. 」です。この英文はそれほどむずかしくないので、たいていの生徒は「理解できた」と思うでしょう。
 しかしその生徒は、「では、その英文を書いてごらん」といったら、正しくこの英文を再現できるとは限りません。かなりの生徒がどこかで詰まったり間違って書いたりするはずです。

 つまり生徒は、「入力」しているだけでは自分の不明点を自覚できず、「出力」しようとして初めてそれに気づくのです。
 このように生徒に説明させること、すなわち「引き出す」ことで、先生や生徒自身が、生徒はまだどこかが理解できないでいるのかを知ることができます。先生の説明を聞いただけでは、生徒の頭の中で自分が「何を理解できて、何を理解できていないか」の線引きできていません。「説明してください」と促されることでその整理が強制され、まだ理解できていない部分が浮かび上がってくるのです。」

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納得。
posted by Fukutake at 09:31| 日記

生物学と死

「聞かせてよ、ファインマンさん」 R.P.ファインマン 大貫昌子・江沢洋(訳) 岩波現代文庫 2009年

現代社会での科学の役割 p85〜

 「今日この会場に集まっているみなさんは、ほとんどが物理学者で、たいてい物理学の立場から深刻な社会問題を考えているわけですが、こと科学の応用について道徳的問題に直面するこれからの分野は、きっと生物学です。生物学の知識の発達にともなう問題は、ますます深刻なものと考えていいでしょう。

 その可能性はハックスレーが『すばらしい新世界』ですでにふれていますが、そのほかにもまだ考えられることはたくさんあります。たとえば遠い未来、エネルギーが物理学によって簡単に供給されるようになったとすると、あとはもう化学の知識を使って、原子の保存してきたエネルギーから食物を作り出せるような形に、原子を組み合わせるだけの話になってくるでしょう。原子の数は保存されていて絶対に消えてなくなることはないのですから、老廃物と同じ量だけ食物を作り出せるはずです。つまり物質保存の法則があるからには、食物の問題は地球上から消えてなくなるに相違ありません。さらにまた僕らが遺伝をコントロールする手段などを発見しようものなら、今度はそれをどう制御すべきか。善悪どっちに使うべきかが深刻な社会問題になってくるはずです。おまけに僕らが幸福とか野心とかの感情の生理的基礎を発見したとしたらどうでしょう。そして人間が野心的になるかならないかまで左右できるとしたら、いったいどうなることでしょう? さらにまたこの世には死というものがあります。

 生物学がこれだけ発達してきているというのに、いまだになぜ死が必然であるのかを示す手がかりが見つかっていないのは、実に驚くべきことの一つと言えましょう。みなさんが仮に永久運動を創りたいと言うとしますと、すでに物理学の研究をとおして、それが絶対不可能か、あるいは法則に誤りがあるかどうかを調べるさまざまな方法が十分発見されてきています。ところが生物学では、なんと死の必然性を示すようなものがまだ何一つ見つかっていないんですから、ひょっとすると死は必然的なものでないのかもしれません。生物学者たちが死というこの不都合きわまりないできごとや、世界中の悪い病気や人間の肉体の「はかなさ」の原因をつきとめ、それを治すのも、もう時間の問題ではないかという気がします。このように見てきますと、生物学上の発見がどんなにたいへんな規模の社会問題を引き起こしなねないことがお分かりでしょう。」

Societa Italiana di Fisica より転載
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posted by Fukutake at 09:27| 日記