「NHK アインシュタイン・ロマン 4」宇宙創生への問い 日本放送協会 一九九一年
蛙と悪魔 p181〜
「蛙は、奇妙な世界にすんでいるらしい。
というのは、蛙は、動いているものは感知できるが、静止しているものは感知できないからだ。もし蛙のみた世界を映像化すれば、さぞふしぎで興味ぶかいだろう。空を飛ぶ鳥は見えるが、鳥が枝にとまった瞬間、蛙の世界から鳥は存在の向こう側へ消えてしまうことになる。…認識を越えた世界は存在しないに等しい。
このようなアナロジーのもとでは、人間と蛙の間には、さほど大きな懸隔が存在しないかのように思える。もし神の眼というものがあるなら、ふたつの動物の世界認識の違いなど、無限小の差異のかなたへ雲散霧消してしまうだろう。
しかし、もし人間と蛙との認識の力に本質的な差があるとすれば、それは、こういうことになるかもしれない。つまり人間は、「時空」という概念を越えたメタ・レベルを仮構することによって、一種の知的超越を試みるということだ。みずからの世界認識にとって根底的ともいえるフレームワークである「時空」の外部へ出ようという認識の冒険。それこそ蛙などにはかなわぬ人間の霊的優越の証拠とみることはできないだろうか。
ペンローズは物理学実在の背後に、「数学的実在」の世界がたしかに存在するというプラトン的な仮説をみいだした。
ホーキングやヴィレンケンは、通常の時空概念を超えた「虚空間」を導入する。
ホイーラーは、時空がすべてであるというのはまちがいだといい、時空の外にある物理法則が宇宙をうみだす力をもつとさえいってのけ、時空を超えたスーパースペースを記述する方程式を書いた。
ホイルは人間の知性を超えた「超知性」の働きによって物理法則がコントロールされていると信じ、ボームは人間の思考を超えた「隠れた次元」があるという。ジョセフソンにとっては「最高知性」こそ時空をこえてわれわれの世界をうみだす根源なのだという。
このような現代物理学のグル(大導師)たちがめぐらす思考を貫くのは、時空を超えたメタ・レベルの存在を仮構することである。このことは、物理学が長い歴史のうえできわめてユニークなターニング・ポイントにさしかかっているということを意味する。なぜならこれまで、科学的な思考の運動は、すべて時空という巨大な箱の内側で行われてきたからである。
考えてみれば、こうしたあたらしい知の展開の出発点となったのは、アインシュタイン方程式にほかならない。そうだとすれば、この稀有な方程式のほんとうの価値は、人間の思考が時空を超えたメタ・レベルにむかってすすむ契機をつくりだしたところになるのかもしれない。」
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ブラック デイケア!
「居るのはつらいよ ーケアとセラピーついての覚書」 東畑開人 医学書院
ブラック・デイケア p301〜
「(もう一つ)ブラックデイケアの例を挙げたい。新聞報道もなされたEクリニックのことだ。そのデイケアではメンバー(患者)の囲み込みが行われ、そのことによって莫大な利益を上げていた。デイケアの専門家である古屋龍太氏はある論文の「闇の舞台としてのデイケア」というおどろおどろしい小見出しの一節で、Eクリニックのデイケアの実態を以下のようにまとめている。少し長いのだけど、その価値があるから引用したい。これはホラーだ。
役所の生活保護窓口の精神科ソーシャルワーカーが嘱託相談員として配置される。ホームレス等の相談者が現れると、生活保護ケースワーカーがクリニック受診を指示し。生活保護受給と引き換えに通院が開始される。クリニック近隣にあるベニア板で仕切られただけの一〜二畳程度のシェアハウスと呼ばれる場所に患者を住まわせ、そこから朝晩の送迎付きで毎日デイナイトケアに通わせる。デイナイトケアでは毎日卓球や室内ゲートボール、院内ウォーキング、テーブルゲームや映画鑑賞等の活動が漫然と組まれているが、活動時間は短く休憩時間が多い。患者が「基準外スタッフ」として介護の要する患者の世話や清掃を行っている。
時給100円換算が労働基準法違反で訴えられてからは、患者の社会参加訓練活動として無給ボランティアになっている。本人生活扶助費は、福祉事務所から直接クリニックに現金書留で送金され、クリニックの職員が日々の金銭管理を細かく行っていく。報道によると発覚直後は、本人名義の通帳を作らせて、キャッシュカードと通帳を管理する方式に変更されたが、一日500円の支給等の金銭管理は変わっていない。このため患者は、デイナイトケアに行かないと食事も取れず、薬も飲めず、お金ももらえない。デイナイトケアに通うことで初めて生きていける構造になっている。通っている患者たちに自発的な目標は無く、日々の生活のためにデイナイトケアに通っている。日中はデイナイトケアから自由な外出もできず、フロアによってはカギのかかる「閉鎖型デイケア」もある。スタッフは長く仕事を続けるなら鈍感にならざるを得ず、これまでに多くのスタッフが抑うつ的になり離職し、毎年大量の若い精神科ソーシャルワーカーらを採用していた。等々。(古屋龍太「精神科ケアはどこに向かうのか」)
送迎とか、やられている活動の種類とか、休憩時間が多いとか、それらは、すでに見てきたように、居場所型デイケアのありふれたやり方だ。「いる」をサポートしようとするとき、デイケアはおのずとそのようになる。だから、Eクリニックが特段奇異なことをしていたようには思えない。
だけど、こうして古屋氏の記述を眺めると、その「いる」が置かれている全体の文脈のグロテスクさに衝撃を受ける。そこでは「いる」が経済的収益の観点から管理されているからだ。一つひとつを取り出せばケアに見えるものも、じつは「いる」を支えるのではなく、「いる」を強制するものとして機能していることが見える。
そこでは「いる」が「閉じ込め」に変わっている。だから、古屋氏は先の記述を次のように締めくくっている。
これまで人権侵害と告発された精神科病院と生き写しの処置が、街中のクリニックで行われていた。」
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本来は同じ言葉の、アジール(Asyl(独)避難所)からアサイラム(Asylum(英)(強制収容所)への変容。
ブラック・デイケア p301〜
「(もう一つ)ブラックデイケアの例を挙げたい。新聞報道もなされたEクリニックのことだ。そのデイケアではメンバー(患者)の囲み込みが行われ、そのことによって莫大な利益を上げていた。デイケアの専門家である古屋龍太氏はある論文の「闇の舞台としてのデイケア」というおどろおどろしい小見出しの一節で、Eクリニックのデイケアの実態を以下のようにまとめている。少し長いのだけど、その価値があるから引用したい。これはホラーだ。
役所の生活保護窓口の精神科ソーシャルワーカーが嘱託相談員として配置される。ホームレス等の相談者が現れると、生活保護ケースワーカーがクリニック受診を指示し。生活保護受給と引き換えに通院が開始される。クリニック近隣にあるベニア板で仕切られただけの一〜二畳程度のシェアハウスと呼ばれる場所に患者を住まわせ、そこから朝晩の送迎付きで毎日デイナイトケアに通わせる。デイナイトケアでは毎日卓球や室内ゲートボール、院内ウォーキング、テーブルゲームや映画鑑賞等の活動が漫然と組まれているが、活動時間は短く休憩時間が多い。患者が「基準外スタッフ」として介護の要する患者の世話や清掃を行っている。
時給100円換算が労働基準法違反で訴えられてからは、患者の社会参加訓練活動として無給ボランティアになっている。本人生活扶助費は、福祉事務所から直接クリニックに現金書留で送金され、クリニックの職員が日々の金銭管理を細かく行っていく。報道によると発覚直後は、本人名義の通帳を作らせて、キャッシュカードと通帳を管理する方式に変更されたが、一日500円の支給等の金銭管理は変わっていない。このため患者は、デイナイトケアに行かないと食事も取れず、薬も飲めず、お金ももらえない。デイナイトケアに通うことで初めて生きていける構造になっている。通っている患者たちに自発的な目標は無く、日々の生活のためにデイナイトケアに通っている。日中はデイナイトケアから自由な外出もできず、フロアによってはカギのかかる「閉鎖型デイケア」もある。スタッフは長く仕事を続けるなら鈍感にならざるを得ず、これまでに多くのスタッフが抑うつ的になり離職し、毎年大量の若い精神科ソーシャルワーカーらを採用していた。等々。(古屋龍太「精神科ケアはどこに向かうのか」)
送迎とか、やられている活動の種類とか、休憩時間が多いとか、それらは、すでに見てきたように、居場所型デイケアのありふれたやり方だ。「いる」をサポートしようとするとき、デイケアはおのずとそのようになる。だから、Eクリニックが特段奇異なことをしていたようには思えない。
だけど、こうして古屋氏の記述を眺めると、その「いる」が置かれている全体の文脈のグロテスクさに衝撃を受ける。そこでは「いる」が経済的収益の観点から管理されているからだ。一つひとつを取り出せばケアに見えるものも、じつは「いる」を支えるのではなく、「いる」を強制するものとして機能していることが見える。
そこでは「いる」が「閉じ込め」に変わっている。だから、古屋氏は先の記述を次のように締めくくっている。
これまで人権侵害と告発された精神科病院と生き写しの処置が、街中のクリニックで行われていた。」
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本来は同じ言葉の、アジール(Asyl(独)避難所)からアサイラム(Asylum(英)(強制収容所)への変容。
posted by Fukutake at 07:37| 日記