2022年08月09日

酒旗翩々と春の風

「漢詩名句 はなしの話」 駒田信二 文春文庫 

杜牧 「清明」 p159〜

 「清明時節雨紛々  清明の時節雨紛々
 路上行人欲断魂   路上の行人 魂を断たんと欲す
 借問酒家何處有   借問す酒家何の処にか有る
 牧童遥指杏花村   牧童遥に指さす 杏花村

 杜牧(八〇三〜八五三)の「清明」と題する七言絶句である。
「清明」は清明節。春分の日から数えて十五日目をいう。この日、人々は郊外の野へ遊びに出かけ、兼ねて先祖の墓参りをする風習があった。花の時節で、雨の降る日が多い。
 第二句の「行人」は道ゆく人、また旅人。「路上の行人」は道ゆく旅人で、他郷の人である。「魂を断たんと欲す」は。さびしくてたまらなくなるという意。
 清明節の日で、雨がしきりに降っている。その雨の降る道を一人の旅人が通って行く。花の咲く春なのに、旅人の心はかえってさびしさに締めつけられる。
 旅人は酒でも飲んでこのさびしさをまぎらわそうと思い、ちょうど通りあわせた牛飼いの少年に声をかける。「ちょっとおたずねします。こんへんに居酒屋はないでしょうか」すると少年は黙って指さした。杏の花が咲き乱れている遥か彼方の村をー。

 土岐義麿の訳詩を挙げておこう。

   弥生
 弥生の頃のしどと雨
 道行き人の魂(たま)きへて
 酒屋は何処みち問へば
 杏の村をさすわらべ

杜牧のこの「清明」は一幅の南画のような詩だが、夏目漱石(一八六七〜一九一六)に「題自画」(「自画に題す」)という七言絶句があって、その同じく第三句に、「清明」の「酒家」を「春風」に変えた句がある。

 唐詩読罷倚蘭干 唐詩を読み終わりて欄干に倚る
 午院沈沈緑意寒 午院沈沈として緑意寒し 
 借問春風何處有 借問す 春風何の処にか有る
 石前幽竹石間蘭 石前の幽竹石間の蘭

第一句の「蘭干は」てすり。第二句の「午院」は真昼の中庭。
唐詩を読むのをやめて立ちあがり、窓のてすりに寄りかかって庭を眺めた。真昼の中庭は静まり返っていて木々の緑には暖かみが感じられない。いったい、春風はどこにひそんでいるのだろうか。ああ、そうか、あの石の前の篁(たかむら)や、あの石の間の蘭。春風はそこにそよいでいるのだ。」

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春風そよぐ清明節


posted by Fukutake at 07:58| 日記

科学と迷信

「聞かせてよ、ファインマンさん」 R.P.ファインマン 大貫昌子・江沢洋(訳) 岩波現代文庫 2009年

現代における科学的文化のありかた p98〜

 「僕が気になってしかたがないものに、現代の神学者が臆面もなく語る話題のことがあります。もちろん、いっこうに恥じる必要のない話題もありますが、宗教の会議などで起こっているできごとや、その決断を待っている問題などを見ていると、現代では考えられないようなことばかりで、まったくばかばかしくて話にもなりません。なぜこんな呆れかえった現状がつづいていけるのかという理由の一つは、もし奇蹟などのほんの一例でも事実だとしたら、僕らの世界観にどれほど重大な改変が必要になるかを、だれも気づいていないからです。占星術の全体とまでいわなくても、たとえそのほんの一部について、それが事実である証明ができたとしたら、世界にたいする僕らの理解に甚大な影響を及ぼさずにはすみません。ですからここで僕たちがちょっぴり笑えるということは、つまり自分がこの世界観に自信があるからで、占星術なんぞが貢献できるものは何もないと信じているからです。しかしそれならなぜそんないい加減なものをなくしてしまわないのでしょう? そのわけはごく簡単で、結局前にも言ったように科学は占星術と無縁だからです。

 もう一つ、これはそれほど確固たるものとは言えないかもしれませんが、僕の信じていることを申しあげたい。科学者どうしは証拠の判断とかその報告とかについて互いに責任を感じるものですが、そこにある種の道徳性が現れていると僕は信じます。では研究報告の正しいやりかた、あるいは正しくないやりかたとは何かと言いますと、もちろん正しいやりかたは、読む者が著者の言っていることを正確に理解できるよう、自分の欲で勝手に事実を色をつけたりせず、できるだけ公平無私に報告することでしょう。こうして互いに理解を助け、個人の利害関係によらず全体のアイデアの発達に資する方法を育てることは、非常に有益で価値のあることなのです。そういう意味でここは一種の道徳性があると言えましょう。そしてこの科学的道徳性が、何とかしてもっと広まってほしいというのが、僕の悲願なのです。ここではプロパガンダなどという汚い言葉は、タブーです。ある国の人間が他の国の描写をするについても、やはり同様に公平無私であるべきでしょう。

 ところが社会にはルルドの奇蹟どころか、もっととんでもない「奇蹟」が横行しているありさまです。たとえば広告なども科学的基準からすれば、製品の非道徳な描写としか考えられません。こうした不道徳性は社会一般にあまりにも広く蔓延しているため、もう日常の生活ではみんなこれに慣れっこになって、別に悪いとも思わなくなっているのではないでしょうか。僕ら科学者がもっと一般社会と関わりを持たなくてはならない理由の一つは、一般人に正確な情報が欠けているため、あるいは絶えず興味のもてるような情報がないため、知能がしだいに蝕まれつつある実状を説明し、何とか目覚めてもらうことにあると思うのです。」

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posted by Fukutake at 07:53| 日記