薬師寺東塔

「宮�ｱ市定全集 21」ー日本古代ー 岩波書店 1993年

薬師寺東塔 p323〜

「中国で唐代から宋代へ移る間に、社会、経済、文化の各方面で、様相ががらりと 変わったことは、内藤湖南博士の指摘があって以来、異存の挟みようのない通説と なっている。 先ず唐の文化は、北方的であり、意志的であり、重厚であり、威圧的であり、瞑想的 であり、田舎風であり、荘厳であり、要するに甚だ中世的である。 これに対して宋の 文化は、南方的であり、趣味的であり、軽快であり、洒脱的であり、直観的であり、都 会風であり、流麗であり、要するに甚だ近世的である。

この唐宋間の変遷はそのまま日本に影響を及ぼして、奈良の平城文化は唐的であ り、京都の平安文化はむしろ宋的である。 唐的な建築を代表するのが法隆寺なら ば、宋的な感触を発揮するのが、鳳凰堂である。 ここで私がいつも不思議に思うのは、奈良ではあるが、西ノ京の薬師寺東塔の時代 性である。というのはこの塔はいつも法隆寺の五重塔などと同じジャンルに分類さ れ、八世紀前半の造営と認められるているが、私の頭の中に住んでいる虫は、どうし てもこれに納得しない。

日本中で一番美しく、私の一番好きなこの建物は、その風姿のスマートさ、その壁 面の明るさ、空気の流通の良さなどから、どう見てもその気分は唐ではなくて宋であ る。 これに最も近い類似を求めるなら、それは法隆寺ではなくて、鳳凰堂である。 私はこの新説を何時だったか、さる同僚に話したところ、「そりゃ賛成だ。 だが今の 長老大徳(だいとこ)が生きている間は口に出すなよ。 祈り殺されるとこわいからな」 と言ってくれた。 私は悪運の強い方だから、祈られてもむざむざ死ぬとは思わない が、それより老人が逆上して、四大不調にでもなられたら事である。 しかし私もそろ そろ、言うべきことは言っておかねばならぬ年になったわい、と思っていると、地下か ら長老の声。 「もう言ってもいいぞォ。」

家屋は人間が日常生活を送るための安息の場であるが、しかし建築物の中には初 めから居住ということを考えず、むしろ人生劇場の舞台として利用するために造られ たものがある。 古代の宮殿や寺院がそれである。 いま法隆寺金堂の上層の欄干に人物が現れたとしたら、何者がいちばん適合する だろうか。 この荘厳な雰囲気は、先ず女人を拒否する。 男子であっても衣冠束帯 の文官では不向きである。 袈裟を纏った僧形すらも筋違いに思われる。 已を得な ければ本堂内に鎮座する四天王のように完全武装した軍士であろうか。 しかもこの 軍士は忍術を会得した身軽な者でなければならぬ。 無骨な欄干は高く空間を遮り、 壁との距離は狭隘を極め、頭上には斗組(ますぐみ)が出ばって、行動の自由を束縛 しているからである。 ここには居住性が完全無視されている。 そういえば金堂の内

部もまた居住性に欠ける。 画家が壁面の模写を行なう、僅かの時間でも坐業するの に堪え難かったことが、火災の一原因となったと思われる。」
初出 『同朋』二、一九七八年七月二十日
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新聞の起源

「漱石全集　第二十二巻」初期の文章　岩波書店　

英国の文人と新聞雑誌　p１６８〜

　「文人詩人の資格を具へて居つても眼丁子なしと云ふ様な者は詩想を表彰する事がで出来ぬから論外である。文章を綴り句を成す力量があつても陶淵明や寒山拾得の様な人々は自分の作を天下後世に傳へたいと云ふ考えがないから是も特別である。然し一般に文學者と呼ばれ叉自ら名乗る者は獨りで述作をして獨りで樂んで居る様な者は極めて鮮ない。況んや文を売って口を糊するというふ場合に至れば必ず何かの手段を以って世の人に自作を紹介し様と企てる。新聞雑誌は此紹介物として頗る便利なものであるからそこで文人と新聞雑誌との関係が生じてくる。此関係を不秩序ながら少し述べ様と思ふ。

　英国では新聞の起源は何時かと云ふと今を去る事幾んど三百年即ち西暦一六二二年に「ナサニエル、バッター」と云ふ男が週報とも訳すべき一種の新聞に似たものを発刊しはじめたのが元祖になって居る。元来英国の貴族は倫敦に邸宅を構えては居るが一年中此紅塵界裏に起臥するものでは無い。三百六十五日の中で三分の一を都で暮し残る三分の二は皆田舎へ引払つて仕舞ふ。偖田舎へ行けば目先が變るので色々面白い事もあるが矢張今頃都では何んな事があるだろう位は思ひ出しもするし又知り度もなつてくる。そこで此等の人々は皆抱えの通信者を倫敦に置て珍事社会万端の出来事を一週に一回宛田舎へあてて報道せしめたものでる。固より通信者中には上手も下手も流行るのも流行らぬものもあつたらしい。處で前に述べた「バッター」と云ふ男は此道にかけて余程巧者な者と見えて諸々方々の注文を引き受て到底一人では手が棒になる程働いても間に合わないと云ふ場合になつた。茲に於て先生一計を案じて自分の一週間内に纏めた材料を印刷に附して毎週依頼者に発送する事にした。是が即ち週報である。

　是が発端で夫から漸々盛大になつて十七世紀の終には五六種以上の新聞が出来るし又「レストレンジ」以後は紙面の體裁も完備して大いに発達をしたと云ふ様なものの「ミルトン」や「ドライデン」が投書家であつたといふ事実の外に別段取立てて云ふ程の事も無い。少なくとも文學上に是と云ふ功績も見えなかつた。…」

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當時の人情風俗を清新流暢な文体で風刺的又は批評的に叙述したものだった。

蕪村の句

「与謝蕪村　郷愁の詩人」　萩原朔太郎著　岩波文庫

春の部　p３２〜

　「　　　　春水や　四条五条*の橋の下
　この句を読んで聯想するのは、唐詩選にある劉廷芝の詩「天津橋下陽春水　天津橋上繁華子　馬声廻合青雲外　人影揺動緑波裏」の一節である。おそらくは蕪村の句も、それから暗示を得たのであろう。唐詩選の詩も名詩であるが、蕪村の句もまた名句である。

　　　　　春の海　終日（ひねもす）のたりのたりかな
　だれも知っている名句であるが、のたりのたりという言葉の音韻が、浪の長閑な印象を良く表現し、ひねもすという語のゆったりとした語韻と合って、音象的に非常に強く利いているのである。

　　　　　橋なくて　日暮れんとする春の水
　こうした春の郊外野景を描くことで、蕪村は特殊の画才と詩情を有している。次の句もまたこれと同題同趣である。

　　　　　春風や　堤長うして家遠し
　この句は「春風馬堤曲（しゅんぷうばていのきょく）」の主題となっている。春風馬堤曲は、蕪村の試みた一種の新しい長詩であって、彼のポエジイの最も純粋な主題的表現である。

　　　　　春雨や　人住んで煙壁を洩る
　蔦かずらの纏う廃屋の中から、壁を伝って煙が洩れている。（人が来て住んだために。）その煙は空に融け合い、霏々として降る春雨の中で、夢のように白く霞んでいるのである。廃屋と、煙と、春雨と、好個の三画題を取り合せて、真に縹渺たる詩情を描き出している。蕪村名句中の一名句である。


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四条五条* ：　能「熊野」の「四条五条の橋の上 老若男女貴賎都鄙 色めく花衣〜」の謡の風景も聯想されます。