2022年08月04日

秋の日の ヴィオロンの

「名訳詩集」 西脇順三郎 浅野晃 神保光太郎 編 白鳳社

編者(浅野晃)解説より p189〜

 「明治以来の西欧文物の吸収過程にあって、最初の訳詩集としてあらわれたものが、『新体詩抄』である。 これは明治十五年に刊行された。 著者は外山正一、井上哲次郎、矢田部良吉の三人で、いずれも当時の東京大学(「のちの東京帝国大学)の教官であった。 すなわち外山は社会学担当の教授、井上は東洋哲学担当の助教授、矢田部は植物学担当の助教授で、年齢は外山が三十四歳、井上が二十七歳、矢田部が三十一歳であった。

 この詩集を『新体詩抄』と名づけたについては、日夏耿之助の『明治大正詩史』によると、ただ詩とだけいうと漢詩のことになるので、井上が新体詩としたらどうかといい、外山、矢田部が賛成して、それに決まったということである。 とにかくこのことから、西欧風の詩にならったものが、ひろく新体詩と呼ばれるようになった。 ちかごろでは近代詩といい、又現代詩ともいっているが、なお新体詩といって十分通用する。

 『新体詩抄』には訳詩が十四篇、創作詩が五篇、収められている。 訳詞は上記の三人が思い思いに訳出したものであるが、原作はみな英詩である。 その中には、テニスンのものや、ロングフェローのものがあり、シェイクスピアの『ハムレット』の中の例の有名な一節もある。

    死ぬるが増か生きるが増か
    思案をするはここぞかし

 というのは外山正一の訳であるが、おなじところを矢田部良吉は、

    ながらふべきか但し又 ながらふべきに非るか 
    爰(ここ)が思案のしどころぞ

 とやっている。 いずれも七五調で押し通しており、秦西訳詩の草分けとしての名誉はとにかく、文学としてはすこぶる物足りない。 ところがこれが、予想外に歓迎され、刊行後まもなく全国に普及するにいたったというから、おのずから時代の要求に答えたものであろう。」

 p35〜 落葉 ポール・ヴェルレーヌ(フランス) 上田 敏

 「秋の日の
 ヴオロンの
 ためいきの
 身にしみて
 ひたぶるに
 うら悲し
 鐘のおとに
 胸ふたぎ
 色かへて
 涙ぐむ 
 過ぎし日の
 おもひでや

 げにわれは
 うらぶれて
 ここかしこ
 さだめなく
 とび散らふ
 落葉かな  chanson d'automne 」

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posted by Fukutake at 11:49| 日記

秦西詩

「名訳詩集」 西脇順三郎 浅野晃 神保光太郎 編 白鳳社 抜粋

「ギヨーム・アポリネール(フランス)

     ミラボー橋      堀口大學

 ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ われ等の恋が流れる
 わたしは思い出す 悩みのあとには楽しみが来ると 
 鐘がなろうと 日が暮れようと 月日は流れ わたしは残る
 手と手をつなぎ 顔と顔を向け合う
 こうしていると 二人の腕の下を
 相も変わらぬまなざしの疲れた水が流れゆく
 鐘が鳴ろうと 日が暮れようと 月日は流れ わたしは残る
 流れる水のように 恋もまた死んでゆく
 命ばかりが長く 希望ばかりが大きい
 鐘が鳴ろうと 日が暮れようと 月日は流れ わたしは残る
 日が去り月がゆき 過ぎた時も 昔の恋も 二度と帰って来はしない
 ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
 鐘が鳴ろうと 日が暮れようと 月日は流れ わたしは残る


     都に雨の降るごとく    アルチュウル・ランボオ 鈴木信太郎

 都に雨の降るごとく わが心にも涙ふる。
 心の底ににじみいる この侘しさは何ならむ
 大地に屋根に降りしきる 雨のひびきのしめやかさ。
 うらさびれたる心には おお 雨の音 雨の歌。
 かなしみうれふるこの心 いはれもなくて涙ふる
 うらみの思ひあらばこそ。
 ゆゑだもあらぬこのなげき。
 恋も憎みもあらずして いかなるゆゑにわが心
 かくも悩むか知らぬこそ 悩みのうちのなやみなれ。


    耳  堀口大學

 私の耳は貝の殻
 海の響をなつかしむ


    梟   上田敏

 黒葉水松(くろばいちゐ)の木下(このした)闇に
 並んでとまる梟は 昔の神をいきうつし、赤眼むきだし思案顔。
 体(たい)も崩さず、ぢつとして、なにを思ひに暮がたの
 傾く日脚(ひあし)推(お)しかこす 大凶(おおまが)時となりにけり。
 鳥のふりみて達人は 道の悟や開くらむ、
 世に忌々(ゆゆ)しきは煩悩と。
 色相界(しきそうかい)の妄執に
 諸人のつねのくるしみは 居(きょ)に安んぜぬあだ心。」

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posted by Fukutake at 11:47| 日記