2022年08月01日

鐘の音

「シークレット・ライフ」 物たちの秘められた生活 ライアル・ワトソン 内田美恵訳 ちくま文庫 1995年

 心を動かす鐘 p186〜

 「わたしがここで言わんとしているのはこういうことだ。ある種の物は奇妙な行動を取り得るし、また実際にもそうしている。そして、それは大方においてわたしたちが事物に暗黙の許可を与えているからにほかならない、と。
 わたしたちが意識的にそれをうながしてることは滅多にない。そうした奇妙な出来事は、わたしたちがどのように世界を見、現実をどのように構造化することを選ぶかといったことの結果である場合がほとんどである。
 出来事はある程度まではわたしたちがかける期待によって組織されているのであり、その組織のされ方というのは、そこに広く流布しているテーマのパターンや、無意識を支配するさまざまな観念、あるいはカール・グスタフ・ユングが「元型(アーキタイプ)」と呼んだところの神話や信仰の集合などに沿っている。…

 たとえば鐘だが、鐘には俗信や感情を引きつける何かがある。鐘は人びとを集め、警鐘となり、祝うにつけ感謝するにつけ打ち鳴らされてきた。あるいはただ時を刻んできた。その青銅の音色が都市の門や仕事の始業や終業をつげ、消灯や消火を呼びかけ、ときには決起をうながし、ときに船の入港を知らせ、火事を警告し、死者を運び出し埋葬する合図となった。

 町の中心にあるような鐘塔の大きな鐘は「シグナム(signum、複数siguna)と呼ばれ、文字通り時間や時代の「合図や徴候sign」となった。世界最大といわれる十二個の大鐘のうち、八個までがロシアのものだというのは十八世紀のロシア帝国的華美と過多の産物なのだろう。残りの二個はビルマ、一個は中国にあるが、史上五番目のその大きさに遜色のない資質をそなえた名鐘だ。日本の京都、知恩院のもので、境内の木々に囲まれひっそりと置かれている。重さにして七四トン。緑がかった青銅製で、巨大な口は地面すれすれまで下がり、横に吊るされた巨大な杉の撞木でつき鳴らされる。ある西欧の人はその音色についてこんな風に綴っているー

   想像を絶するほどの神秘的、戦慄的かつ厳粛である。木々からほとばしり、町中へところがり下りていく。深い柔らかい、陰うつな音色は銅羅のうなりに近い。空へ突きぬけることはせず、あくまで地面を這うように伝わるのだ。砂地に水がしみるがごとく、聞く者の中に広がる。かすかな、ちりちりとした流れが体を通りぬける… あてどなくさまようそれはあまりにももの悲しく、あまりに荒涼として、ゆっくりくり返される轟音はまるで嗚咽のように響く。

 すぐれた鐘というのはそれほど人を感動させるものなのである。鐘がアルプス地方で雷雨を追いはらうために、またイギリスの一部ではお産の苦しみをやわらげるために鳴らされるというのもうなずける。民間伝承にひとりでに鳴りだす鐘の話が数多く含まれているのもそのためだろう。

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巨大な波長の力
posted by Fukutake at 11:47| 日記

漱石の痘痕

「ダメの人」 山本夏彦 文春文庫 1985年

 夏目漱石のあばた p72〜

 「夏目漱石があばたであることを、私は少年のときから知っていた。どうして知ったか、今となっては思いだせない。たぶん漱石が自分で、私はあばただと書いたのを見たのだろう。
 私は漱石の写真を、何枚も見ている。どこといって難のない立派な顔である。壮年の漱石は鼻下に髭を貯え、よい生地のよい仕立ての洋服を着ていた。その写真のなかに、あばたの痕跡を発見することはできない。
 してみれば漱石のあばたは、写真にうつらない程度のものだったのだろうか。それとも写真に修整がしてあったのだろうか。

 漱石が子供のとき天然痘にかかったことは、たいていの人が知っているが秋聲が天然痘にかかったことを知るものは少ない。明治二十五年、数えどし二十二歳の徳田秋聲が桐生悠々と金沢の四高を中途退学して、尾崎紅葉の門を叩いた。紅葉の弟子となって文士になろうとしたのである。このときはうまくいかなくて、二人は金沢へ帰るが、それまでしばらく東京の下宿に一緒にいた。この下宿で二人は天然痘にかかったのである。

 私は旧幕のころの日本橋のたもとに立って、通行人百人のうちに何人あばたがいるか、切に知りたいと思う。百人のうち半分は疱瘡(ほうそう)にかかっていて、そのうちあばたの著しいものが何人で、著しくない者が何人で、ほとんど痕跡のないものが何人かということを見たいと思う。それがわからないと、私は江戸時代の美男美女は、すべて疱瘡をわずらって、幸あとにならなかったのか、まだわずらっていないのか、もしまだなら、これが流行するたびに伝染する恐れがあって、戦々兢々としているのか、これらのすべてがわからないと、私は落ちつかないのである。そして、それを書いたものはどこにもない(らしい)のである。

 さて、あばたはわが国では珍しくないが、ロンドンでは珍しい。漱石はロンドンでそのあばたを見られた。教育のないものはまじまじと見たし、教育のあるものは見ないふりをして見た。
 漱石がロンドンに行ったのは、明治三十三年の秋である。雲をつくようなイギリス人のなかにあって、漱石はさぞ小さかったことだろう。子供かと見ると大人である。その上あばたである。
 漱石はロンドンで自分より小さな男を発見しなかった。向こうから人並はずれて背の低い男が来るので、しめたとすれ違いざまに見ると、自分より二寸(六センチ)ばかり高いと漱石は書いている。

 漱石は往来で女たちに、シナ人にしてはましだと評されたことがある。男たちに、ジャップにしてはハンサムだと言われたことがある。茶の会によばれて、フロックコートを着て、シルクハットをかぶっていたから、一寸法師がイギリス人のような格好をしていると見られたのだろう。…」

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漱石の身長は一五五センチと読んだことがある。
posted by Fukutake at 11:43| 日記