「岩橋邦枝の誹風柳多留」 集英社文庫 1996年 (抜粋)
つづき p120〜
「花嫁の 不粋でないのにくらしさ
なんとまあ垢ぬけした花嫁だ。 「不粋でないの」は、不粋どころじゃない、つまりずば抜けて粋なこと。 そういう嫁をもらった果報者を羨み舌打ちする男たち。 粋な花嫁を、あれこれ取沙汰する女たち。 「にくらしさ」が、男女それぞれの心理の反応をあらわしている。
喰いつぶす やつにかぎって歯をみがき
家の財産をつかい果たして窮するような男にかぎって、歯をみがいて見栄っ張りなぜいたくする。 「喰いつぶす」と「歯をみがく」を結びつけたところが趣向。 歯みがき粉は当時もう出回っていたが、ぜいたく品だった。 歯ブラシは「房楊枝」の名でよばれて、ダンディ気どりの男には欠かせない小道具の一つだったらしい。
後家の質 男ものから置きはじめ(先に置き)
亡夫を偲ぶ気持ちと悲嘆が消えたわけではない。 しかし、必要にせまられると自分の着物はとっておいて、亡夫のものから先へ入れはじめる。 人間の暮らしの現実。
泣きながら まなこをくばる形見分(かたみわけ)
形見分 以後は音信(いんしん)不通なり
もらう物をもらえば、あとはもう用はない。 「以後」「音信不通」のかたい表現がみょうにおかしい。 形見分けの句はいずれも、古今東西変わらぬ人間の物欲を、笑いにつつみながらずばりとついている。
二つ三つ 内端(うちば)にとしを当てるなり
若く見られるほうが、だれしもうれしい。 そこで、わざと「二つ三つ内端に」相手の年齢を当ててみせる。 これも人情の機微を巧みにうがって、古びない句。
人に物 ただやるにさえ上手下手(じょうずへた)
江戸の川柳がうがってみせる人情の機微、人生の省察は、ここに抜粋した句に見るとおり、すこしも古びない。 現代にもあてはまる人間世界の真理を、からかいながら皮肉のうちにあざやかに示している。
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人にものをただあげるにも上手い下手がありますね。
2022年08月25日
川柳、今に通ずる真実
posted by Fukutake at 13:05| 日記
きぬぎぬの別れ
「新版 枕草子 上巻」 石田穣二 訳注 角川ソフィア文庫
後朝の作法 第六十段 p291〜
「明け方、女の許から帰って行く男は、服装などひどくきちんと、烏帽子の緒を元結にしっかり結んだりしなくてもいいんじゃないかと思われることだ。たいそうだらしなく、まるで馬鹿みたいに、直衣や狩衣などの着方が乱れていようと、誰がそれを見付けて、「あの男が」などと笑ったり非難したりしようか。
男というものはやはり、明け方の女の許からの返りっぷりが、一番風情があるもののように思われる。 ひどく気が進まない風情で、起きるのが大儀そうであるのを、女が無理にせき立てて、「明るくなりすぎたわ。 まあ、世間体の悪い」などと女から言われて、ほっとため息をつく風情も、見かけだけでなくほんとに別れたくなく、帰って行くのがおっくうでもあるのだろうと、女からは見える。 指貫なども、坐ったままで、はこうともせず、何よりもまず女に身を寄せて、夜の間の口説の続きを女の耳に甘くささやき、別に着物を着るというふうもないようだけれども、気がついて見ると、いつも間にか、帯など結ぶ様子だ。 格子を押し上げ、妻戸のある所は、そのまま一緒に妻戸口まで女を連れて行って、昼間逢えないでいる間、どんなにか気がかりなことだろう、などという別れの言葉も、女の耳にささやきながらするりと出て行く、こんなふうだったら、女の方としても自然その後ろ姿が見送られて、後の風情も格別であろう。
何が急に思い出したとでもいったふうに、ひどくさっぱりと起き上がって、ばたばたやって、指貫の腰紐をごそごそと締め、直衣でも袍(うえのきぬ、上着)でも狩衣でも、袖をまくって、何もかも几帳面にたくし入れ、帯を固く結び終わって、その場に坐り直して、烏帽子の緒をキュッときつそうに結んで中に入れ、きちんとかぶり直す音がして、扇や畳紙(たとうがみ)など、昨夜枕上に置いたのだけれども、自然にあちこち散らばってしまったのを、さがすのだけれども暗いから見えようはずもない、「どこだ、どこだ」と、そこいら中、手で叩きまわって、やっとさがし出して、やれ一安心と、扇をハタハタ使い、懐紙をしまいこんで、「それではお暇(いとま)しよう」と言って帰って行くのが、たいていの男のようだ。」
(評)
前半、女の立場からの理想的な帰り方、後半(これが現実である、という書き方である)、もう用は済みましたといった事務的、散文的な帰り方を活写している。
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後朝の作法 第六十段 p291〜
「明け方、女の許から帰って行く男は、服装などひどくきちんと、烏帽子の緒を元結にしっかり結んだりしなくてもいいんじゃないかと思われることだ。たいそうだらしなく、まるで馬鹿みたいに、直衣や狩衣などの着方が乱れていようと、誰がそれを見付けて、「あの男が」などと笑ったり非難したりしようか。
男というものはやはり、明け方の女の許からの返りっぷりが、一番風情があるもののように思われる。 ひどく気が進まない風情で、起きるのが大儀そうであるのを、女が無理にせき立てて、「明るくなりすぎたわ。 まあ、世間体の悪い」などと女から言われて、ほっとため息をつく風情も、見かけだけでなくほんとに別れたくなく、帰って行くのがおっくうでもあるのだろうと、女からは見える。 指貫なども、坐ったままで、はこうともせず、何よりもまず女に身を寄せて、夜の間の口説の続きを女の耳に甘くささやき、別に着物を着るというふうもないようだけれども、気がついて見ると、いつも間にか、帯など結ぶ様子だ。 格子を押し上げ、妻戸のある所は、そのまま一緒に妻戸口まで女を連れて行って、昼間逢えないでいる間、どんなにか気がかりなことだろう、などという別れの言葉も、女の耳にささやきながらするりと出て行く、こんなふうだったら、女の方としても自然その後ろ姿が見送られて、後の風情も格別であろう。
何が急に思い出したとでもいったふうに、ひどくさっぱりと起き上がって、ばたばたやって、指貫の腰紐をごそごそと締め、直衣でも袍(うえのきぬ、上着)でも狩衣でも、袖をまくって、何もかも几帳面にたくし入れ、帯を固く結び終わって、その場に坐り直して、烏帽子の緒をキュッときつそうに結んで中に入れ、きちんとかぶり直す音がして、扇や畳紙(たとうがみ)など、昨夜枕上に置いたのだけれども、自然にあちこち散らばってしまったのを、さがすのだけれども暗いから見えようはずもない、「どこだ、どこだ」と、そこいら中、手で叩きまわって、やっとさがし出して、やれ一安心と、扇をハタハタ使い、懐紙をしまいこんで、「それではお暇(いとま)しよう」と言って帰って行くのが、たいていの男のようだ。」
(評)
前半、女の立場からの理想的な帰り方、後半(これが現実である、という書き方である)、もう用は済みましたといった事務的、散文的な帰り方を活写している。
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posted by Fukutake at 13:00| 日記
2022年08月23日
漱石俳句
「漱石の京都」 水川隆夫 平凡社 2001年
漱石の俳句と謡曲 p224〜
「漱石は、第五高等学校に赴任した明治二十九年(一八九六)から謡(うたい)をはじめ、謡曲を読む機会が多くなった。彼の俳句には、謡曲を題材にしたものがかなりある。
和田利男は、(『漱石の詩と俳句』)の中で、次のような句をあげて解説を加えている。
琵琶の名は青山とこそ時鳥 (明治二十九年「経政」)
経政の琵琶に御室の朧かな (大正三年「經政」)
謡うべき程は時雨つ羅生門 (明治二十九年『羅生門」)
折り焚き(て)時雨に弾かん琵琶もなし (明治二十九年「蝉丸」)
霞けり物見の松に熊坂が (明治三十年「熊坂」)
払へども払へどもわが袖の雪 (明治三十二年「鉢木」)
雪の夜や佐野にて食ひし粟の飯 (明治四十五年「鉢木」)
蝙蝠に近し小鍛冶が槌の音 (明治三十六年「小鍛冶」)
山伏の関所へかかる桜哉 (明治四十一年 「安宅」)
俊寛と共に吹かるる千鳥かな (明治四十二年「俊寛」)
浦の男に浅瀬問ひ居る朧哉 (名に四十三年「藤戸」)
和田利男の挙げていないものを、三句つけ加えておきたい。
山伏の並ぶ関所や梅の花 (明治二十九年)
この句も「安宅」によったものと思われる。山伏に身をやつした義経主従が安宅の関で関守の冨樫に怪しまれる。弁慶は即席の勧進帳を読み上げ、わざと義経を打ちすえ、関所を通る。冨樫が後を追って非礼をわび、弁慶が舞を舞い、一行は奥州へ落ちのびていくという四番目物である。この句では、関所の情景に桜ではなく香気の高い梅を配し、主従の心情を象徴させている。
梅散るや源太の箙(えびら)はなやかに (明治三十二年)
謡曲「箙」によっている。あらすじは、生田川に着いた西国の僧の前に梶原源太景季の幽霊が現れ、名木箙の梅のいわれと一の谷合戦の模様を語る。通夜をする僧の前に矢を入れる箙に梅の枝をさしたはなやかな若無武者の景季が現れ、生田の森での合戦の様を見せ回向を頼むという修羅物である。この句は眼前の梅の花の散る様を見て、景季の合戦の様子を思い浮かべたものであろう。
花曇り尾上の鐘の響きかな (明治四十一年)
謡曲「高砂」からヒントを得たものと思われる。阿蘇の神主が高砂の浦で松の落葉掻きの老夫婦から高砂住吉の相生の松のいわれを聞く。海上に姿を消した老夫婦の言葉のままに住吉に行くと、住吉の松の精が現れて、泰平の御代を寿いで舞を舞う。世阿弥作で、正式の演能の最初におかれる脇能(神事物)の代表的な曲である。この句は、曲中に引用された「高砂の尾上の鐘の音すなり暁かけて霜や置くらん」(『千載和歌集』)を踏まえている。」
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漱石の俳句と謡曲 p224〜
「漱石は、第五高等学校に赴任した明治二十九年(一八九六)から謡(うたい)をはじめ、謡曲を読む機会が多くなった。彼の俳句には、謡曲を題材にしたものがかなりある。
和田利男は、(『漱石の詩と俳句』)の中で、次のような句をあげて解説を加えている。
琵琶の名は青山とこそ時鳥 (明治二十九年「経政」)
経政の琵琶に御室の朧かな (大正三年「經政」)
謡うべき程は時雨つ羅生門 (明治二十九年『羅生門」)
折り焚き(て)時雨に弾かん琵琶もなし (明治二十九年「蝉丸」)
霞けり物見の松に熊坂が (明治三十年「熊坂」)
払へども払へどもわが袖の雪 (明治三十二年「鉢木」)
雪の夜や佐野にて食ひし粟の飯 (明治四十五年「鉢木」)
蝙蝠に近し小鍛冶が槌の音 (明治三十六年「小鍛冶」)
山伏の関所へかかる桜哉 (明治四十一年 「安宅」)
俊寛と共に吹かるる千鳥かな (明治四十二年「俊寛」)
浦の男に浅瀬問ひ居る朧哉 (名に四十三年「藤戸」)
和田利男の挙げていないものを、三句つけ加えておきたい。
山伏の並ぶ関所や梅の花 (明治二十九年)
この句も「安宅」によったものと思われる。山伏に身をやつした義経主従が安宅の関で関守の冨樫に怪しまれる。弁慶は即席の勧進帳を読み上げ、わざと義経を打ちすえ、関所を通る。冨樫が後を追って非礼をわび、弁慶が舞を舞い、一行は奥州へ落ちのびていくという四番目物である。この句では、関所の情景に桜ではなく香気の高い梅を配し、主従の心情を象徴させている。
梅散るや源太の箙(えびら)はなやかに (明治三十二年)
謡曲「箙」によっている。あらすじは、生田川に着いた西国の僧の前に梶原源太景季の幽霊が現れ、名木箙の梅のいわれと一の谷合戦の模様を語る。通夜をする僧の前に矢を入れる箙に梅の枝をさしたはなやかな若無武者の景季が現れ、生田の森での合戦の様を見せ回向を頼むという修羅物である。この句は眼前の梅の花の散る様を見て、景季の合戦の様子を思い浮かべたものであろう。
花曇り尾上の鐘の響きかな (明治四十一年)
謡曲「高砂」からヒントを得たものと思われる。阿蘇の神主が高砂の浦で松の落葉掻きの老夫婦から高砂住吉の相生の松のいわれを聞く。海上に姿を消した老夫婦の言葉のままに住吉に行くと、住吉の松の精が現れて、泰平の御代を寿いで舞を舞う。世阿弥作で、正式の演能の最初におかれる脇能(神事物)の代表的な曲である。この句は、曲中に引用された「高砂の尾上の鐘の音すなり暁かけて霜や置くらん」(『千載和歌集』)を踏まえている。」
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posted by Fukutake at 07:44| 日記