2022年07月28日

フランス革命とフィガロの結婚

「西洋作家論」 小林秀雄 第三文明社 レグルス文庫 

辰野隆譯 「フィガロの結婚」 p147〜

 「辰野隆譯「フィガロの結婚」を讀む。私のような浅学の者には、こういう作品は原文で讀むよりも、名譯で讀む方がはるかに有益であり、いろいろな意味で面白かった。

「フィガロ」がアンシャン・レジイムの堕落貴族等に対し人間の権利と自由とを主張する庶民達の代弁者であることは、周知の常識である。先日、神西清君に聞いたが、ロシアでも、六、七〇年代のナロオドニキの革新運動のころには、「フィガロ」は非常によく讀まれた本だそうである。今日、わが国で、「フィガロ」が上演され、出版されるというのも、故なき事ではないようだが、辰野氏の長年苦心の譯業は、時流とは関係ないものだと思う。むしろ、この前の「シラノ」の場合もそうであるが譯者の気質に関係する。「シラノ」というフランス民衆劇の傑作に、譯者がつとに、わが国の民衆の伝統的美風と信ずる闊達な正義感と繊細な人情との共鳴を聞いていたところに、両作が氏の名譯となって現れた所以があるように思われる。

 「フィガロ」が上演されたのは、大革命の前夜である。貴族等が、自分がさんざん罵倒され揶揄される芝居に上演を許可したことは、まことに滑稽な事で、まるで芝居を地で行ったようなものだが、どうもその辺に、この芝居の滑稽の力の機微があるようだ。上演許可について、ボオマルシェは種々辣腕を振ったそうだが、いかな辣腕が作者にあったにせよ、芝居そのものの文句のない魅力、フィガロという男の顔を見ると、いやとはどうも言い兼ねる、というものがなかったら、事は運ばなかったであろう。

 「フィガロ」の試演は、まづサロンで、貴顕の面前で行われたと言う。見物のなかには多くのアルマヴィヴァ伯爵がいて腹をかかえて笑っていたであろう。足利時代のわが国の殿様達も、狂言の馬鹿殿様の滑稽を楽しんだのである。誰も自分が笑われているとは思わない。彼等が馬鹿だからではない。舞台に現ずる天真の笑いが、彼等の平素の邪念や不安を一掃するからである。「フィガロの結婚」にはある種の能狂言に非常によく似た性質があるようだ。そこにその時代の庶民の反逆や風刺の思想を讀みとるという事も間違いではないであろうが、それも半ば批評家の取越苦労めいた事であり、そんな事でもしないと、「フィガロの結婚」は、ただいたずら洒落のめし、歌いのめす内容空虚なる笑劇に化する恐れがあると言った次第のものである。

 しかし、「フィガロの結婚」が押すな押すなの盛況で人死が出たというその初演以来、今日に至るまで人気を呼んでいる所以は、内容空虚で、洒落のめすところにある事は確かなようである。そして、この魅力は、ボオマルシェという奇略縦横にして天真爛漫な生活人、ひたすら活動のために活動を追い、一見内容空虚の如く見える生命あふれた十八世紀人の人間的魅力なのであろう。「歌で了るが世のならい」という陽気な合唱には、意外に深い思想があるのではなかろうか。モオツァルトこそこの芝居の最大の解説者ではなかったろうか。」
(「朝日新聞」昭和二五年五月七日号)

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posted by Fukutake at 08:13| 日記

半七登場

「岡本綺堂随筆集」千葉俊二編 岩波文庫 2007年

半七捕物帳の思い出 p333〜

 「初めて「半七捕物帳」を書こうと思い付いたのは、大正五年の四月頃とおぼえています。そのころ私はコナン・ドイルのシャアロック・ホームズを飛び飛びには読んでいたが、全部通読したことがないので、丸善に行ったついでに、シャアロック・ホームズのアドベンチュアとメモヤーとレターンの三種を買って来て、一気に引きつづいて三冊読み終わると探偵物語に対する興味が油然と湧き起こって、自分もなにか探偵物語を書いてみようという気になったのです。勿論その前にもヒュームなどの作も読んでいましたが、わたしを刺激したのはやはりドイルの作です。

 しかしまだ直ぐには取りかかれないので、更にドイルの作を猟(あさ)って、かのラスト・ギャリーやグリーン・フラグや、キャピテン・オブ・ポールスターや、炉畔物語(ろはんものがたり)や、それらの短編集を片端から読み始めました。しかし一方に自分の仕事があって、その頃は『時事新報』の連載小説の準備もしなければならなかったので、読書もなかなか捗取(はかど)らず、最初からでは約一月を費して、五月下旬にようやく以上の諸作を読み終わりました。

 そこで、いざ書くという段になって考えたのは、今までに江戸時代の探偵物語というものがない。大岡政談や板倉政談はむしろ裁判を主としたものであるから、新(あらた)に探偵を主としたものを書いてみたら面白かろうと思ったのです。もう一つには、現代の探偵物語をかくと、どうしても西洋の模倣に陥り易い虞れがあるので、いっそ純江戸式に書いたらば一種の変わった味のものが出来るかも知れないと思ったからでした。幸いに自分は江戸時代の風俗、習慣、法令や、町奉行、与力、同心、岡っ引などの生活に就いても、一通りの予備知識を持っているので、まあ何とかなるだろうという自信もあったのです。

 その年の六月三日から、先ず「お文の魂」四十三枚をかき、それから「石灯籠」四十枚をかき、更に「勘平の死」四十一枚を書くと八月から『国民新聞』の連載小説を引受けなければならない事になりました。『時事』と『国民』、この二つの新聞小説を同時に書いているので、捕物帳はしばらく中止の形になっていると、そのころ『文芸倶楽部』の編集主任をしていた森暁紅君から何か連載物を寄稿しろという註文があったので、「半七捕物帳」という題名の下に先ず前記の三種を提出し、それが大正六年の新年号から掲載され始めたので、引きつづいてその一月から「湯屋の二階」「お化師匠」「半鐘の怪」「奥女中」を書きつづけました。雑誌の上では新年号から七月号にわたって連載されたのです。

 そういうわけで、探偵物語の創作はこれが序開(じょびら)きで、自分ながら覚束ない手探りの形でしたが、どうやら人気にかなったというので、更に森君から続編をかけと註文され、翌年の一月から六月にわたってまたもや六回の捕物帳を書きました。その後も諸雑誌や新聞の注文をうけて、それからそれへと書きつづけたので、捕物帳も案外多量な物となって、今まで発表した物語は約四十種あります。」

(昭和二年八月「文芸倶楽部」)
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posted by Fukutake at 08:06| 日記