「世界漫遊随筆抄」 正宗白鳥 講談社文芸文庫 2005年
プラーグ(チェコ)漫歩 p207〜
「…午後私一人、漫歩して高台へ登ると、小児を乗せた乳母車を牽いている肥満した粗服の男子が、英語で私に話掛けて、私の一つの質問に対して、十にも余る返答をしたが、それはチェッコスロバキアという新興国の、現在の活気と将来の隆盛を、得意の色を浮かべて語るのであった。オースタリーやハンガリーは衰運に向かっているが、自分の国は地味もよく産業も盛んで、言論も自由で、国民は愉快に生活しているということなのだ。政治知識のない私は、聞くだけで何の批判も挿まれなかったが、高台から見下される河の両岸の都会風景は、可成り美しかった。その男は、私をホテルに近い停留所でおろすように車掌に頼んで、私に握手を求めて別れた。十年前に巴里のトロカデロという所の公園ベンチで出会ったチェッコ人だという老夫婦は、自国の独立を喜んで、出稼ぎ先のカリフォルニアから帰国するところだと云って、プラーグの都会美を賛美していたことも私に記憶に残っている。
これだけの事でも、チェッコロスロバキアという国の人間が、人懐っこいという事と、人のよさそうな事と、自国の独立をいかに喜んでいるかという事とを、私に想像させるのであった。私に豊富な世界知識がないのに、二三の偶然の遭遇によって判断するのは軽率であるが、万事について日常の我々の判断は大抵そんなものである。それに、私などは何度世界旅行したって、土地土地の人と打溶けた話なんかする機会は滅多になかったので、この二三のチェッコ人が、途上に出会っただけで、進んで打溶けた話をしたのは、珍しい例として私の心に印象されている。それほどに自国の独立を喜んでいた彼等が、今日はいかなる気持ちで生きているのであろうかと、私は朧げに心に残っている彼等の面影を追想している。プラーグからブダペストを経てウィーンへ行った時に、英字新聞を見ると、そこに掲げられたウィーンだよりのなかに、ここの市民は、プラーグ没落を描叙した新刊の空想小説を争って購読して、せめてもの気晴らしとしていると書いてあった。自分に相手を叩きつける力がないから、小説という空想の世界に於いてそれを為遂げたいと思っているのは、人心の機微に触れている。ところで、今日に於いては、その空想が実現されている。国と国との関係も人と人との関係も同じことであろう。
ワルソーは破壊されても、プラーグは私達が見た有様のままに残されているようだ。力及ばずと知れたら強者に屈服するのがよろしいか。力のかぎりを尽くして強者に抵抗するのがよろしいか。それは疑問である。勝海舟などの思慮によって江戸が焦土とならなかったのは、日本近世史の慶事であり、人間の心に潜在せる残忍性を抑制し得た修身訓の実例にもなるのだが、幕府の江戸が官軍に降伏するのと、一つの国が他の国に屈服する能登は感じがまるで異なるのであろうか。團十郎でも菊五郎でも圓朝でも、その他江戸の歌舞音曲の名手でも、薩長などの田舎武士から成上った官員の前に平身低頭して御機嫌を伺っていたのは、芸術文化は俗界の権力者に対しては無力であることの例証であるが、強権者の御機嫌を伺いながら存在して、繁栄するのなら、兎に角結構であると云えよう。
破壊の発頭人を拝み倒してでも、欧洲文化をそのまま残して貰いたいように、常識人には考えられそうである。」
(初出「改造」昭和十四年十月号)
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欧洲大乱の間際
無意識とは
「脳が先か、心が先か」 養老孟司 大正大学 まんだらライブラリー 2009年
脳と心 p28〜
「皆さん方の人生は意識で考える限り断続的である、つまり点線だと言わざるを得ない。考えてみると。そうでしょう。ちょっと暇な方は計算してみてください。今まで自分は人生の中で何回意識を失っただろうか。どうですか。計算したら簡単でしょう。普通の人は一日一回と数えると思いますけれど、私が学生を観察した限るでは一日数回、ないし一日十回ぐらい意識を無くしていると思いますがね(笑)。
その意識をなくしている状態のときに、次に意識が戻ってくると思っていますか。思っているも何も、何にも思ってないから意識がないのですね。そうしたら、ひょっとして皆さん、最後にその意識が切れて、もう帰ってこないかと心配していませんか。普通には、死ぬとか言ってますね、そういうことを考えるようになってから、私はあまり心配しなくなりました。そもそも私の意識が切れて返ってこないといったって、毎日毎日意識は切れているのですから、そうですよね。その意識が切れている間は、帰ってこようが帰ってこまいが私の知ったこっちゃないんですよ。もっと言えば、自分が死ぬということは、自分にとっては何の問題でもないということに気がついてくる。だって、ある意味では毎日、皆さん死んでいるわけですから、意識で考える限り。そうしたら、その人たちがそのまま死んじゃって帰ってこなくたって、知ったこっちゃないじゃないですか。宗教ってそこを上手にカバーしていますね、仏教とか。浄土教でも極楽とか言ってますけど、別にどこに行ったっていいんですけど、論理的に考えると、どこかへ行く保証は何もないのですよ。それで普通の人は、次に目が覚める前提でいるわけです。次に目が覚めるという前提でいるから安心して寝るのですけど。ある日、目が覚めないんじゃないかとパニックを起こしたりしてる。死ぬんじゃないかと。
でも、心配も何も要りません。別に目が覚めなくたって本人は困らないですよね。今日もそうですよ。私は今日、大正大学のシンポジウムに来ると約束しているのですけど、目が覚めなくて、つまり死んじゃって来なくなったって私は全く困らない。困るのはそこにおられる先生たちで、「あいつめ、間の悪いときに死にやがって」と、こういう話になるわけです(笑)。そうでしょう。困るのは私じゃないじゃないですか。困っている私はいませんよ。もしも、そういうわがままな考え方は普及すると、どうも今の日本みたいに自殺がふえたかなと逆に今、反省したんですけれども、これはいろんなふうに使えるのですよ。自分自身の生死は実は問題じゃないという文化はずっとありました。実は戦前はそうでしたよね、お国のために死ぬと。だから、それはそれで人間の文化に必ずあるのです。そこのところにどこが問題があるかということは今日はもうこれ以上言いません。」
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小生も全身麻酔から目覚めたとき、「死ぬとはこういうものか」と納得したものです。
脳と心 p28〜
「皆さん方の人生は意識で考える限り断続的である、つまり点線だと言わざるを得ない。考えてみると。そうでしょう。ちょっと暇な方は計算してみてください。今まで自分は人生の中で何回意識を失っただろうか。どうですか。計算したら簡単でしょう。普通の人は一日一回と数えると思いますけれど、私が学生を観察した限るでは一日数回、ないし一日十回ぐらい意識を無くしていると思いますがね(笑)。
その意識をなくしている状態のときに、次に意識が戻ってくると思っていますか。思っているも何も、何にも思ってないから意識がないのですね。そうしたら、ひょっとして皆さん、最後にその意識が切れて、もう帰ってこないかと心配していませんか。普通には、死ぬとか言ってますね、そういうことを考えるようになってから、私はあまり心配しなくなりました。そもそも私の意識が切れて返ってこないといったって、毎日毎日意識は切れているのですから、そうですよね。その意識が切れている間は、帰ってこようが帰ってこまいが私の知ったこっちゃないんですよ。もっと言えば、自分が死ぬということは、自分にとっては何の問題でもないということに気がついてくる。だって、ある意味では毎日、皆さん死んでいるわけですから、意識で考える限り。そうしたら、その人たちがそのまま死んじゃって帰ってこなくたって、知ったこっちゃないじゃないですか。宗教ってそこを上手にカバーしていますね、仏教とか。浄土教でも極楽とか言ってますけど、別にどこに行ったっていいんですけど、論理的に考えると、どこかへ行く保証は何もないのですよ。それで普通の人は、次に目が覚める前提でいるわけです。次に目が覚めるという前提でいるから安心して寝るのですけど。ある日、目が覚めないんじゃないかとパニックを起こしたりしてる。死ぬんじゃないかと。
でも、心配も何も要りません。別に目が覚めなくたって本人は困らないですよね。今日もそうですよ。私は今日、大正大学のシンポジウムに来ると約束しているのですけど、目が覚めなくて、つまり死んじゃって来なくなったって私は全く困らない。困るのはそこにおられる先生たちで、「あいつめ、間の悪いときに死にやがって」と、こういう話になるわけです(笑)。そうでしょう。困るのは私じゃないじゃないですか。困っている私はいませんよ。もしも、そういうわがままな考え方は普及すると、どうも今の日本みたいに自殺がふえたかなと逆に今、反省したんですけれども、これはいろんなふうに使えるのですよ。自分自身の生死は実は問題じゃないという文化はずっとありました。実は戦前はそうでしたよね、お国のために死ぬと。だから、それはそれで人間の文化に必ずあるのです。そこのところにどこが問題があるかということは今日はもうこれ以上言いません。」
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小生も全身麻酔から目覚めたとき、「死ぬとはこういうものか」と納得したものです。
posted by Fukutake at 07:54| 日記
毛虫愛
「阿部光子の 更科日記/堤中納言物語」 わたしの古典10 集英社 1986年
虫愛(めづ)る姫君 p159〜
「(姫君は)さまざまな形の籠箱(こばこ)に中に虫をお入れになって、飼っていらした。その中でも、「烏毛虫(かはむし)とよばれる毛虫の軽薄な気配がなく思慮深げで動きも重厚なのが、特に奥ゆかしい」とおっしゃる。
こうして朝晩、下仕えの女のように髪の毛をかき上げて耳にはさみ、かいがいしく毛虫の世話をし、掌(てのひら)に這わせてじっと見守っておいでになったりする。
このありさまに、年若い女房たちは怖(お)じまどい、毛虫を見ては途方に暮れているので、姫君はお気にいらない。姫君というものは、身近に女童をお使いになるのが普通であるが、女童は役にたたないとおっしゃる。そして、虫を見ても驚かない身分のあまりよくない少年たちを、平気でおそば近くにお使いになる。少年たちに虫をつかまえさせて、その名を聞き、新発見のものであると、
「さあ、名前をつけよう。何がいいだろう。お前はどんな名をつける」などと面白がり、少年たちに新しい名を考えさせ、それを名づけてはお喜びになるのであった。
姫君が常日ごろ、ご自分の考えとして主張されているのは、
「人間が何事につけても形を取りつくろい、身なりにあれこれ気を使い化粧して、真実の姿をごまかそうとするのはよろしくない」
ということだった。当時の女性は、十二、三歳となると、裳着(もぎ)といって成人式を行い、眉毛を抜いてまゆずみで眉を描き、お歯黒で歯を真っ黒く染めて、大人の女性となる。ところが、この姫君は自説を通して
「眉を抜いて描くなんて面倒だ。うるさい。自然のままでよろしい」
とまったく眉毛をお抜きにならない。ましてお歯黒にいたっては、
「汚い。せっかく真っ白な歯を、なんで真っ黒にするのでしょう。自然の摂理にそむくことだわ」 といっさいおつけにならない。
そこで、真っ白な歯を見せてにこにこと笑いながら、籠箱の中の虫どもを朝に夕に可愛がり、その成長を観察して楽しんでいらっしゃる。
お仕えする女房たちは、あまりに風変わりな姫君のごようすに、妖怪に魅入られやしないかと心おだやかでない。また、気味悪い虫どものもそもそ動く籠箱があちこちに置かれている部屋に坐っているのは、気持ちのよいものではない。そのうえ、姫君は屈託もなく、
「ちょっとここに来て、これをそっちの箱に移して」などと命じられる。
「あの、その烏毛虫をでございますか」と顔色を変えてあとじさりする女房に、「なにをいやがるんです。この可愛い目をみてごらん」と虫を掌にのせて突きつけられる。
女房たちが我慢しきれなくなって逃げ出すと、だらしがないと、とてつもない大声をあげてお叱りになるので、姫君のお部屋で何事がおこったかと、人が驚くほどの騒ぎであった。姫君にしてみれば、可愛い毛虫を怖がる女房たちが理解できない。
「ふとどきな人たちだ。下品このうえない」と黒々と毛の生えている、それこそ毛虫のような眉を逆立てて、おにらみになるのである。にらまれる女房は、ますます恐ろしく、どうしてよいやらわからずに、おろおろしてお仕えしているのであった。」
烏毛虫* ガの幼虫(「けはえむし」のなまり)
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毛虫好きとは!
虫愛(めづ)る姫君 p159〜
「(姫君は)さまざまな形の籠箱(こばこ)に中に虫をお入れになって、飼っていらした。その中でも、「烏毛虫(かはむし)とよばれる毛虫の軽薄な気配がなく思慮深げで動きも重厚なのが、特に奥ゆかしい」とおっしゃる。
こうして朝晩、下仕えの女のように髪の毛をかき上げて耳にはさみ、かいがいしく毛虫の世話をし、掌(てのひら)に這わせてじっと見守っておいでになったりする。
このありさまに、年若い女房たちは怖(お)じまどい、毛虫を見ては途方に暮れているので、姫君はお気にいらない。姫君というものは、身近に女童をお使いになるのが普通であるが、女童は役にたたないとおっしゃる。そして、虫を見ても驚かない身分のあまりよくない少年たちを、平気でおそば近くにお使いになる。少年たちに虫をつかまえさせて、その名を聞き、新発見のものであると、
「さあ、名前をつけよう。何がいいだろう。お前はどんな名をつける」などと面白がり、少年たちに新しい名を考えさせ、それを名づけてはお喜びになるのであった。
姫君が常日ごろ、ご自分の考えとして主張されているのは、
「人間が何事につけても形を取りつくろい、身なりにあれこれ気を使い化粧して、真実の姿をごまかそうとするのはよろしくない」
ということだった。当時の女性は、十二、三歳となると、裳着(もぎ)といって成人式を行い、眉毛を抜いてまゆずみで眉を描き、お歯黒で歯を真っ黒く染めて、大人の女性となる。ところが、この姫君は自説を通して
「眉を抜いて描くなんて面倒だ。うるさい。自然のままでよろしい」
とまったく眉毛をお抜きにならない。ましてお歯黒にいたっては、
「汚い。せっかく真っ白な歯を、なんで真っ黒にするのでしょう。自然の摂理にそむくことだわ」 といっさいおつけにならない。
そこで、真っ白な歯を見せてにこにこと笑いながら、籠箱の中の虫どもを朝に夕に可愛がり、その成長を観察して楽しんでいらっしゃる。
お仕えする女房たちは、あまりに風変わりな姫君のごようすに、妖怪に魅入られやしないかと心おだやかでない。また、気味悪い虫どものもそもそ動く籠箱があちこちに置かれている部屋に坐っているのは、気持ちのよいものではない。そのうえ、姫君は屈託もなく、
「ちょっとここに来て、これをそっちの箱に移して」などと命じられる。
「あの、その烏毛虫をでございますか」と顔色を変えてあとじさりする女房に、「なにをいやがるんです。この可愛い目をみてごらん」と虫を掌にのせて突きつけられる。
女房たちが我慢しきれなくなって逃げ出すと、だらしがないと、とてつもない大声をあげてお叱りになるので、姫君のお部屋で何事がおこったかと、人が驚くほどの騒ぎであった。姫君にしてみれば、可愛い毛虫を怖がる女房たちが理解できない。
「ふとどきな人たちだ。下品このうえない」と黒々と毛の生えている、それこそ毛虫のような眉を逆立てて、おにらみになるのである。にらまれる女房は、ますます恐ろしく、どうしてよいやらわからずに、おろおろしてお仕えしているのであった。」
烏毛虫* ガの幼虫(「けはえむし」のなまり)
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毛虫好きとは!
posted by Fukutake at 07:52| 日記