「NHK アインシュタイン・ロマン 4」宇宙創生への問い 日本放送協会 一九九一年
ブライアン・ジョセフソン p124〜
「綺羅星のごとく名をつらねる歴代の研究者のなかで、弱冠三十二歳という最年少の若さでノーベル賞をうけたのが、ブライアン・ジョセフソン博士である。一九七三年のことだ。
しかも、授賞式の対象になった論文は、わずか二十四歳のときの仕事だというのだからおそれいる。
コンピューターの基礎をつくったジェセフソン素子は、彼の量子力学における画期的な理論を応用してつくられたものだ。その後のコンピュータ産業の興隆の大きさを思えば、かれの理論がいかに現代文明に強い影響力をもったかわかる。
しかし、若き天才は、その後しだいにいまの科学の思考や方法論に対して、深い疑問をもつようになった。同時に、かれは、物理学だけでなく、人工知能や精神科学への関心を深めていく。
「現在のコンピューターには、とても満足できないのです」とかれはいう。
「私がいま開発しているのは、ある種の直感力をもった人工知能のプログラムです。いまのコンピューターは、人間の知性のはたらきのうち、ほんの一部をモデルとしているにすぎません」
人間は計算したり推論したりするだけの機械ではない。むしろ人間の創造性は、直感力や、芸術家のような感受性とかかわりがある。人間はある場合には、いまの科学では説明できない、神秘的な経験をつくりだす能力さえそなえている。こうした側面には、科学者はほどんと目をむけていない。コンピューターも人工知能も、人間の能力の多様性に対してもっとひらかれていくことが必要だ。これがジョセフソンの目論見であるらしい。
物理学については、かれはもちろん深い関心をもちつづけているが、相対性理論と量子論にもとづく現代の物理学のパラダイムにはもはや限界を感じているようだ。
総じてかれの関心は、人間の精神的能力の開発にむけられている。科学者は精神についてほとんどなにも知らないとジョセフソンはいう。人間の精神的能力は、一般に考えられているよりも潜在的にはずっと大きい。ところが科学者は、それに大した根拠もなく境界線をつくり、小さな範囲に精神をとじこめようとする。その結果、現代人は矮小化され、直感力をうしない、宇宙と深いレベルで交感する体験をもてなくなってしまったのだという。
ではかれは、世界のはじまりについてどのような考えをもっているのだろうか。
「人びとが最初に考えた理論は、ビッグバンでした。ビッグバンよりも前となると、無からうまれたという話になります。しかし私は、私たちに宇宙と考えられているものよりも前に、なにかがあったと思います。私の考えでは、私たちが宇宙とよんでいるものがあらわれるよりも前から、精神の特性が存在していて、空間と時間は、精神からつくりだされたのです。そして、そのことは科学理論と矛盾しないと思います。ふつうは、方程式を書いて、私たちが知っている物質や時空のほかになにもないと仮定します。しかし、それもあやまりかもしれません」という」
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ペレの呪い
「シークレット・ライフ」 物たちの秘められた生活 ライアル・ワトソン 内田美恵訳 ちくま文庫 1995年
石の復讐 p36〜
「一九七七年の夏、航空会社の副社長ラルフ・ロファートは、家族連れでハワイの休暇を楽しみにいった。一家がハワイ島の火山公園をおとずれた際、四人の子供たちはマウナ=ロア山の溶岩に覆われたスロープから土産に石ころを持ちかえった。それから一週間とたたぬころから、ニューヨーク州バッファローに戻った一家に災難がふりかかりはじめた。十四歳のマークは、野球をしている最中足首を捻挫、膝の軟骨も傷めた。それからまもなく、ホッケーの試合中でも肘を骨折した。十二歳のダニーは、フットボールの練習中に左手の骨にひびを入れ、森に中を走っていて木の枝に突っこみ瞼の筋肉を切った。十一歳のトッドは、バスケットボールをしていて腕を折り、急性盲腸炎を起こして病院にかつぎこまれ、体操中にこけてもう片方の手を骨折し、さらに肘関節の脱臼というおまけまでついた。七歳のレベッカは、ブランコから落ちて歯を二本折り、歯医者が治療し終わるか終わらぬうちに、もう一度ころんで同じ歯を折った。
四児の母親のダイアン・ロファートは、火山に宿る女神の逆鱗に触れるから山の石を持ちかえるなと現地の古老に警告されたのを憶い出した。そのときはとりあわなかったのだが悪いことが重なるので考えなおし。箱にくだんの石を詰めてハワイの友人に郵送、それらを火山のふもとにばらまいてくれと頼んだ。それ以後、下の三人には事故が絶えてなくなったのに、なぜかマークだけは肩を脱臼するわ、太腿に深手を負うわ、掌をこっぴどく擦りむ鍬で、いっこうに災難がやむけはいがない。問いつめられた少年が部屋にまだ石を三個隠しもっているのを白状したのでそれらも返送すると、悪夢はようやく終止符を打った。
カナダのオンタリオ州リッチモンドヒル在住のアリソン・レーモンドの体験は苛酷をきわめた。小石の土産を持ってハワイ旅行から帰った直後、彼女の息子は脚を骨折したうえに膵臓を悪くし、母親が癌で死亡したと思ったら、今度は夫を車の正面衝突事故で失った。ロファート一家と同じく、石を島へ返還して以来、不運な出来事は起こらなくなった。
ハワイ島の公園管理局には、土産品を手放したいという人たちから一日平均して四十個の石の小包が送り届けられる。年間一トンにもなるこの凶運の石には差出人も住所もないのがほとんどだが、最近、テキサス州エルパソから石を送り返してきた材木商のニクソン・モリスは、こんな窮状をせつせつと訴えてきた。まず家には落雷。そのあと、本人が屋根から滑り落ちて腰の骨と大腿骨を折り、孫娘は腕を骨折し妻は長患い。あげくの果てに、ペットの猫が車のボンネットの中に閉じこめられ、胴の片側がつるつるにはげてしまったという。
以上、「真面目な確率の限界を越えた」事例をいくつもくり返したが、山はほとんどどこの文化でも崇拝の対象であり、人々に畏敬の念や俗信を生みだす力を持っている。ハワイの火山の女神ペレは、自分を守ろうとするあまり、聖なる石を持ち去ろうとする者には執拗な復讐を加えるという。」
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小生も波打ち際で小石を持ち帰りましたが…。
石の復讐 p36〜
「一九七七年の夏、航空会社の副社長ラルフ・ロファートは、家族連れでハワイの休暇を楽しみにいった。一家がハワイ島の火山公園をおとずれた際、四人の子供たちはマウナ=ロア山の溶岩に覆われたスロープから土産に石ころを持ちかえった。それから一週間とたたぬころから、ニューヨーク州バッファローに戻った一家に災難がふりかかりはじめた。十四歳のマークは、野球をしている最中足首を捻挫、膝の軟骨も傷めた。それからまもなく、ホッケーの試合中でも肘を骨折した。十二歳のダニーは、フットボールの練習中に左手の骨にひびを入れ、森に中を走っていて木の枝に突っこみ瞼の筋肉を切った。十一歳のトッドは、バスケットボールをしていて腕を折り、急性盲腸炎を起こして病院にかつぎこまれ、体操中にこけてもう片方の手を骨折し、さらに肘関節の脱臼というおまけまでついた。七歳のレベッカは、ブランコから落ちて歯を二本折り、歯医者が治療し終わるか終わらぬうちに、もう一度ころんで同じ歯を折った。
四児の母親のダイアン・ロファートは、火山に宿る女神の逆鱗に触れるから山の石を持ちかえるなと現地の古老に警告されたのを憶い出した。そのときはとりあわなかったのだが悪いことが重なるので考えなおし。箱にくだんの石を詰めてハワイの友人に郵送、それらを火山のふもとにばらまいてくれと頼んだ。それ以後、下の三人には事故が絶えてなくなったのに、なぜかマークだけは肩を脱臼するわ、太腿に深手を負うわ、掌をこっぴどく擦りむ鍬で、いっこうに災難がやむけはいがない。問いつめられた少年が部屋にまだ石を三個隠しもっているのを白状したのでそれらも返送すると、悪夢はようやく終止符を打った。
カナダのオンタリオ州リッチモンドヒル在住のアリソン・レーモンドの体験は苛酷をきわめた。小石の土産を持ってハワイ旅行から帰った直後、彼女の息子は脚を骨折したうえに膵臓を悪くし、母親が癌で死亡したと思ったら、今度は夫を車の正面衝突事故で失った。ロファート一家と同じく、石を島へ返還して以来、不運な出来事は起こらなくなった。
ハワイ島の公園管理局には、土産品を手放したいという人たちから一日平均して四十個の石の小包が送り届けられる。年間一トンにもなるこの凶運の石には差出人も住所もないのがほとんどだが、最近、テキサス州エルパソから石を送り返してきた材木商のニクソン・モリスは、こんな窮状をせつせつと訴えてきた。まず家には落雷。そのあと、本人が屋根から滑り落ちて腰の骨と大腿骨を折り、孫娘は腕を骨折し妻は長患い。あげくの果てに、ペットの猫が車のボンネットの中に閉じこめられ、胴の片側がつるつるにはげてしまったという。
以上、「真面目な確率の限界を越えた」事例をいくつもくり返したが、山はほとんどどこの文化でも崇拝の対象であり、人々に畏敬の念や俗信を生みだす力を持っている。ハワイの火山の女神ペレは、自分を守ろうとするあまり、聖なる石を持ち去ろうとする者には執拗な復讐を加えるという。」
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小生も波打ち際で小石を持ち帰りましたが…。
posted by Fukutake at 07:52| 日記
嫉妬と迎合
「やぶから棒 ー夏彦の写真コラムー」 山本夏彦 新潮文庫 平成四年
汚職で国は滅びない p100〜
「リベートや賄賂というと、新聞はとんでもない悪事のように書くが、本気でそう思っているのかどうか分からない。
リベートは商取引にはつきもので、悪事ではない。ただそれを貰う席にいないものは、いまいましいから悪く言うが、それは嫉妬であって正義ではない。だからといって恐れながらと上役に訴えるものが出ないのは、いつ自分にその席に座る番が回ってくるか知れないからで、故に利口者はリベートをひとり占めにしない。いつも同役に少し分配して無事である。会社も気をつかって交替させ、同じ人物をいつまでもそこに置かない。
我々貧乏人はみな正義で、金持と権力ある者はみな正義でないと言う論理は、金持でもなく権力もない読者を常に喜ばす。タダで喜ばすことができるから、新聞は昔から喜ばして今に至っている。これを迎合という。
城山三郎著「男子の本懐」(新潮社)は、宰相浜口雄幸と蔵相井上準之助を、私事を忘れて国事に奔走した大丈夫として描いている。けれど二人は共に非業の死をとげる。
当時の新聞は政財界を最下等の人間の集団だと書くこと今日のようだった。それをうのみにして、若者たちは政財界人を殺したのである。
汚職や疑獄による損失は、その反動として生じた青年将校の革新運動によるそれにくらべればものの数ではない。血盟団や青年将校たちの正義は、のちのちわが国を滅ぼした。汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼすのである。
今も新聞は政治家を人間のくずだと罵(ののし)るが、我々は我々以上の国会も議員も持てない。政治家の低劣と腐敗は、我々の低劣と腐敗の反映だから、かれにつばするものはわれにつばすることなのに、われわれはかれに勇んでつばすることをやめない。」
(週刊新潮 昭和五十五年四月十七日号)
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それは嫉妬
汚職で国は滅びない p100〜
「リベートや賄賂というと、新聞はとんでもない悪事のように書くが、本気でそう思っているのかどうか分からない。
リベートは商取引にはつきもので、悪事ではない。ただそれを貰う席にいないものは、いまいましいから悪く言うが、それは嫉妬であって正義ではない。だからといって恐れながらと上役に訴えるものが出ないのは、いつ自分にその席に座る番が回ってくるか知れないからで、故に利口者はリベートをひとり占めにしない。いつも同役に少し分配して無事である。会社も気をつかって交替させ、同じ人物をいつまでもそこに置かない。
我々貧乏人はみな正義で、金持と権力ある者はみな正義でないと言う論理は、金持でもなく権力もない読者を常に喜ばす。タダで喜ばすことができるから、新聞は昔から喜ばして今に至っている。これを迎合という。
城山三郎著「男子の本懐」(新潮社)は、宰相浜口雄幸と蔵相井上準之助を、私事を忘れて国事に奔走した大丈夫として描いている。けれど二人は共に非業の死をとげる。
当時の新聞は政財界を最下等の人間の集団だと書くこと今日のようだった。それをうのみにして、若者たちは政財界人を殺したのである。
汚職や疑獄による損失は、その反動として生じた青年将校の革新運動によるそれにくらべればものの数ではない。血盟団や青年将校たちの正義は、のちのちわが国を滅ぼした。汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼすのである。
今も新聞は政治家を人間のくずだと罵(ののし)るが、我々は我々以上の国会も議員も持てない。政治家の低劣と腐敗は、我々の低劣と腐敗の反映だから、かれにつばするものはわれにつばすることなのに、われわれはかれに勇んでつばすることをやめない。」
(週刊新潮 昭和五十五年四月十七日号)
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それは嫉妬
posted by Fukutake at 07:50| 日記
自省せよ
「「今日一日」のヒント」心を癒す365日 へーデルデン編 町沢静夫訳 知的いきかた文庫 三笠書房
p99〜
「子供にどこか直したい点があるなら、まずよく考え、それが自分についても直したほうがよい点ではないか、ということを見極めるべきである。 カール・ユング
自分がどんなふうに親の振る舞いを真似してきたかを思い出してほしい。親のようなおめかしをし、言葉や態度までも真似た。両親は世界一素晴らしい人間だと考えていたので、そっくり同じになりたかったのだ。こういった例は周囲にいくらでも転がっており、子供たちは親や兄、姉、年上の友人の真似をしている。そういったことは悪いことではない。
問題は、子供たちが健全な振る舞いや態度だけでなく、非常に不健全なことまで真似てしまうことだ。若者が不作法なのを見て不愉快に思うのは、その若者に自分を見ているからである。すると悪い気はしないなどといっていられなくなる。
人の嫌な面が見えた時には、まず自分が直す必要がないかどうかを見極めなければならない。自分自身を直す。相手はこちらを見習うかもしれないし、見習わないかもしれない。だが自分で自分の振る舞いを振り返った時、人に真似されてもかまわない面だということを確信できる。
今日はよい手本となるために自分をどう変えることができるだろうか?」
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p99〜
「子供にどこか直したい点があるなら、まずよく考え、それが自分についても直したほうがよい点ではないか、ということを見極めるべきである。 カール・ユング
自分がどんなふうに親の振る舞いを真似してきたかを思い出してほしい。親のようなおめかしをし、言葉や態度までも真似た。両親は世界一素晴らしい人間だと考えていたので、そっくり同じになりたかったのだ。こういった例は周囲にいくらでも転がっており、子供たちは親や兄、姉、年上の友人の真似をしている。そういったことは悪いことではない。
問題は、子供たちが健全な振る舞いや態度だけでなく、非常に不健全なことまで真似てしまうことだ。若者が不作法なのを見て不愉快に思うのは、その若者に自分を見ているからである。すると悪い気はしないなどといっていられなくなる。
人の嫌な面が見えた時には、まず自分が直す必要がないかどうかを見極めなければならない。自分自身を直す。相手はこちらを見習うかもしれないし、見習わないかもしれない。だが自分で自分の振る舞いを振り返った時、人に真似されてもかまわない面だということを確信できる。
今日はよい手本となるために自分をどう変えることができるだろうか?」
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posted by Fukutake at 07:47| 日記