「死すべき定めー死にゆく人に何ができるかー」 アトゥール・ガワンデ
原井宏明 訳 みすず書房 2016年
よりよい生活 p121〜
「一九〇八年、ハーバード大学の哲学者、ジョサイア・ロイスが『忠誠の哲学』というタイトルの本を著した。ロイスは老化の試練に関心があったわけではない。彼は、死の宿命について考えるとき誰もが向き合う根源的な難問に関心があった。人はなぜ単純に存在しているだけではーなぜ衣食住が与えられ、安心して生きているだけではー空虚で無意味に感じるのかをロイスは知ろうとした。生きるに値すると感じるためにはそんなもの以上に何が必要だろうか?
その答えは、己自身を越えた大義を人は求めていることにあると彼は信じた。彼によればこれは内在的な人間のニードである。大義は大きなこと(家族や国、主義)でもいいし、小さなこと(建築計画やペットの世話)でもいい。重要なことは、大義に対して価値を見いだしていること。それに対して犠牲を払ってもよいと感じていることであり、それを通じて人は自分の命に意味を持たせるのである。
ロイスは己を越えた大義への献身を忠誠と呼んだ。これを個人主義の対極にあるものとみなした。個人主義者は自己利益をトップに置き、自分の痛みや喜び、存在に対して大いに関心を示す。個人主義者にとっては、自己利益と無関係な大義への忠誠は奇妙に見える。もし、そのような忠誠が自己犠牲を勧めるものならば、危険とすらみなせるー 非合理的で間違った傾向であり、暴君による人民に対する搾取につながるだろう。自己利益以上に意味のあるものはなく、死ねばすべて消えるのだから、自己犠牲にはまるで意味がない。
ロイスは個人主義者の見方には共感しない。「利己主義者はいつも私たちの側にいるが」と彼は書いている。「しかし、利己的に振る舞うことを神から与えられた権利だとするのは、どんなに巧妙に議論したとしても、認められたことは決してない」。彼は主張する、事実として人間は忠誠を必要としている、と。忠誠が幸福をもたらすわけではなく、辛いこともあるが、自分自身以上の何かに献身することで、人生に耐えられるようになる。それがなければ己の欲望だけに導かれることになる。欲望は移ろいやすく、気まぐれて、飽くことを知らない。究極的には苦悩しかもたらさない。「本来から言えば、祖先から引き継いだ無数の性質が集まる広場のようなものが私だ。ある瞬間からまたある瞬間ごとに… 衝動の塊が私だ」。ロイスの内省である。「内側には光は見えない。外の光を見ることにしよう」
そして私たちもそうしている。自分の死後、世界に何が起こるかを私たちが深く気にかけているという事実を考えてみてほしい。もし利己が生きる意味の主たる要素ならば、自分が死んだ一時間後に知り合いの全員が地球上から消し去られたとしても、まったく気にしないだろう。しかし、大半の人が気にする。そのようなことが起こったとすれば、自分の人生が無意味になるように感じる。
死を無意味なものにしない唯一の方法は、自分自身を家族や近隣、社会など、何か大きなものの一部だとみなすことだ。そうしなければ、死すべき定めは恐怖でしかない。しかし、そうみなせれば、恐れることはない。「忠誠とは」、ロイスは言う。「自己の外側に奉じるべき大義があることを示すことで、平凡な実存に伴うパラドックスを解決するものである。人自身の中に奉仕を喜ぶ意思があり、その意思とは何にも挫けることなく、奉じることによって豊かに表現されているのだ」。」
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人生の終わりに向けて
「行動学入門」 三島由紀夫 文春文庫
旅行のおわり p125〜
「…旅の終わりは、それが恋の旅であったなら、かえりの汽車なり船なりは、一人の方がのぞましい。旅先の駅頭で、相手と別れてきたほうが美しい。旅も音楽のようなもので、美しい予感の序曲からはじまり、最終楽章のクライマックスで終わるのが最高だが、帰路の二人旅は、概してアンチ・クライマックスにしかなりません。
それよりも、一人旅の何時間かのあいだ、ひたすら今別れてきた恋人の面影を偲び、恋の思い出を反芻し、またこの汽車を途中から乗り換えて彼女のところへ舞い戻りたいという気持ちを抑えながら、やがて窓外は暮れ、東京へ入るところから、街の灯火あふれる大都会の只中へ、誰にも知られずにかえってゆく。
こんなすばらしい「旅のをはり」はありますまい。
人生は音楽ではない。最上のクライマックスで、巧い具合に終わってくれないのが人生というものである。恋の旅なら、人工的に音楽をマネすることもできるが、人生の「旅のをはり」はそうは行かない。
むかし『旅路の果て』という、役者のなれの果てばかりが住む養老院を描いたみじめなフランス映画がありましたが、恋の終わりなら、ひとり思い出を反芻するのも楽しいが、人生の旅路の果てに、花やかなりし昔の思い出にすがって死を待つのは情けない。
私の親戚の老人はついこの間八十八歳で亡くなりましたが、彼は死ぬまでビフテキを食べ、一週間に三度は会社に出て大声で叱咤し、週末には必ず車で週末旅行に出かけ、死んだ日も、夕食後奥さんや家族とテレビをみて、「眠いから先に寝るよ」と、一人で寝室に入り、それから一時間ほどの間に死んでいました。
こんな具合に、死ぬまで走りつづける機関車みたいな逞しい旅の終わりもあるのです。人間、誰でも音楽のおわりのように美しく花々しく死にたいものです。しかし、とてもそんな具合には行きそうになかったら、一切旅のおわりの感傷を捨て、旅客であることをやめ、忠実で無感動な機関車になり切って、シュッシュポッポと、ひたすら終着駅をめざすほうが賢明かもしれません。」
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死を考えず、思い出にすがらず、ひたすら前だけ向いて進め。
旅行のおわり p125〜
「…旅の終わりは、それが恋の旅であったなら、かえりの汽車なり船なりは、一人の方がのぞましい。旅先の駅頭で、相手と別れてきたほうが美しい。旅も音楽のようなもので、美しい予感の序曲からはじまり、最終楽章のクライマックスで終わるのが最高だが、帰路の二人旅は、概してアンチ・クライマックスにしかなりません。
それよりも、一人旅の何時間かのあいだ、ひたすら今別れてきた恋人の面影を偲び、恋の思い出を反芻し、またこの汽車を途中から乗り換えて彼女のところへ舞い戻りたいという気持ちを抑えながら、やがて窓外は暮れ、東京へ入るところから、街の灯火あふれる大都会の只中へ、誰にも知られずにかえってゆく。
こんなすばらしい「旅のをはり」はありますまい。
人生は音楽ではない。最上のクライマックスで、巧い具合に終わってくれないのが人生というものである。恋の旅なら、人工的に音楽をマネすることもできるが、人生の「旅のをはり」はそうは行かない。
むかし『旅路の果て』という、役者のなれの果てばかりが住む養老院を描いたみじめなフランス映画がありましたが、恋の終わりなら、ひとり思い出を反芻するのも楽しいが、人生の旅路の果てに、花やかなりし昔の思い出にすがって死を待つのは情けない。
私の親戚の老人はついこの間八十八歳で亡くなりましたが、彼は死ぬまでビフテキを食べ、一週間に三度は会社に出て大声で叱咤し、週末には必ず車で週末旅行に出かけ、死んだ日も、夕食後奥さんや家族とテレビをみて、「眠いから先に寝るよ」と、一人で寝室に入り、それから一時間ほどの間に死んでいました。
こんな具合に、死ぬまで走りつづける機関車みたいな逞しい旅の終わりもあるのです。人間、誰でも音楽のおわりのように美しく花々しく死にたいものです。しかし、とてもそんな具合には行きそうになかったら、一切旅のおわりの感傷を捨て、旅客であることをやめ、忠実で無感動な機関車になり切って、シュッシュポッポと、ひたすら終着駅をめざすほうが賢明かもしれません。」
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死を考えず、思い出にすがらず、ひたすら前だけ向いて進め。
posted by Fukutake at 09:18| 日記