2022年07月11日

デカルト大好き

「西洋作家論」 小林秀雄 第三文明社 レグルス文庫

デカルト讃 p117〜

 「僕は、デカルトのメタフィジック*に就いて、専門的意見を述べる事が出来ない。述べ度いとも思わない。ガルニエ版の「デカルト選集」が、ただ僕の座右の書であるに過ぎない。

「自我」の問題は、古今東西を貫くという事を、彼ほど僕にはっきり教えてくれた人はない。デカルトは、僕にとって文学者ではない、哲学者でさえない。哲学を哲学的専門語の手から解放したこの最初の近代人が、わが国では永い間広く読まれる機会を与えられなかった事は残念な事であった。立派な訳者達による、この選集はおそらくその好機会を作るであろう。そして、現代の読者は、現代が、知らず識らずのうちに、すっかり痛めつけ不具にして了った「自我」とか「方法」とか「懐疑」とかいうものが、本来は、どれほど男らしい、美しい、健康なものであるかを知るだろう。

 デカルトは、明晰な合理主義者であり、中世の学問上の因習に囚われた曖昧な語彙を、非常な決断で捨て去り、自在な日常語を馳駆(ちく)して、自分の考えを簡潔に率直に述べた哲学者であるが、彼の著作は決して理解し易いものではない。
 「見たところ明瞭で、模倣も容易なら反駁も容易だが、到る処殆ど底知れぬ感じだ」とアランは「デカルト讃」のなかで言っているが、僕には彼の意見は正しいように思われる。

 というよりむしろ「底に知れない感じ」という言葉で、彼の言いたい事は、よく納得出来る様に思われるのである。所謂「明晰な作家」としてのデカルトの明快さなぞというものは、畢竟何物でもない。
 「方法序説」で説く「理性を正しく導く方法」の理性という言葉に、敢えて「自分の」という言葉を冠し、各人の理性を正しく導くための方法を教えようとするのではない。
 或は又、或る仮説を第一原理から明からさまに演繹してみせたくないのも、人が二十年もかけて考えた処を、一日で悟る自信を持った哲学者が世間にいるからだ、と言う時、デカルトは皮肉なぞ言っているのではない。

 この思索の達人はよく知っていた。世の弁証家の万人を教えんとする「高遠な弁証法」が空しい修辞に過ぎない事を。手近にある平凡な「理性の光」を軽蔑するのは思索人の慣わしである事を。又この「理性の光」を育てる方法は各人が己の裡にその種子を発見し、これに恰も職人が自分の技術に習熟する様に習熟する他はない事を。
 ロダンは、ミロのヴィナスがパリを街を歩いたら、どうだろうと書いているが、デカルトが、現代の思索人の間をほんとうに歩いたらどうだろうと僕は思う。ヴィナスはロダンのアトリエを歩いただけである。」
初出 (『デカルト選集』第三巻月報 創元社 昭和14年一二月)

メタフィジック* 形而上学
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posted by Fukutake at 07:45| 日記

伝統の重荷

「小泉八雲と近代中国」 劉岸偉 岩波書店 2004年

個人の自由の欠如 p228〜

 「ハーンは、近代の入り口に追い込まれた日本人の現実を見逃さずにきっちりと見定めていた。日本が産業社会に直面している危機について、次のような警鐘を鳴らしている。

   現代日本における個人の自由の欠如は、たしかに国家的危機に際会しているというところまできているようである。それは封建社会持続を可能ならしめたあの無条件の服従、忠義、また権威に対する尊敬などの習慣は、ややもすると真の民主政体の成立を不可能ならしめ、むしろ無政府の状態を招来する傾向があるからである。人間個人の自由に長く慣れている民族ー政治支配のこととは切り離して、倫理の事柄として考えられている自由ーつまり政治上の権威とは無関係に、正邪、曲直の問題として考えられる自由、そういう自由に慣れてきた民族だけが、格別何のあぶなげなしに、今日日本を脅かしているような危機に対決することができるのである。(『神国日本』)

 わずか三十年の間に幾世紀かの仕事をやり遂げた、日本のいままでの成功は、古き時代に養われた国民性に負うところが多い。しかし、将来の産業社会で競争に敗北しないためには、むしろ自国の伝統の「重荷」と対決しなければならない、とハーンは予見する。

   もしも日本の将来が、その陸海軍に、国民の高度の勇猛心、さらに名誉と義務の理想のためには何十万でもわれ死なんという覚悟などに依存できるものならば、現在の事態などに驚きあわてなければならぬ理由はあるまい。ところが不幸にもこの国の将来は、勇気などとは異質のもの、つまり自己犠牲などとはちがった別の能力に頼らなければならないのである。そして今後のこの国の闘争は、その社会的伝統がこの国を著しく不利な境地に陥れる苦闘となるにちがいないのである。産業競争に対する能力なども、婦人や子供のみじめな労働力に依存してなされるようなものではあり得ない。どうあっても個人の知的な自由に頼らざるを得ない。そしてこの自由を抑圧したり、その抑圧を放置してかまわないような社会は、相も変わらず頑迷固陋であって、個人の自由を厳重に維持している社会との競争に対応することはとてもできまい。日本が集団によって考えかつ行動をしている間は、その限りでは、たといその集団が産業社会の場合であっても、日本はその間はいつも全力を発揮しかねる状態をつづけてゆくに相違ない。日本の古来の社会経験は、この国の今後の国際競争裏の進出を利することには不適当なものである。 ーいや、かえってそれは場合によっては、この国の死の重荷を課することになるにちがいない。精霊に関係させた意味で言えば、この「重荷」は、過去何代かに亙っての死者の亡霊が、日本の生命の上に加える目には見えない重圧なのである。日本は、今後自国よりは豊かな弾力とさらに強力な各国の社会との競争場裏で、巨大な敵と戦わなければならないだけではない。この国はまたさらに、自国の亡霊の支配する過去の力に対してより一層奮闘を重ねなければならないのである。(『神国日本』)

 その後の日本の近代史の歩みは、ハーンの予見の真偽を語ってくれた。」

「神国日本」は一九〇四年ハーンの晩年「日本 一つの解明」(An Attempt at Interpretation)として出版された

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個人の自由→伝統の重荷との対決
posted by Fukutake at 07:41| 日記