2022年07月09日

語りは語り言葉で

随想「昔話の現在」 小澤俊夫 

 「昔話について、民俗学では「囲炉裏端伝承」という言葉がある。 だが、農村では、今や囲炉裏そのものがなくなりつつあるし、子どもはいろいろ便利な方法で話が聴けるので、老人が家庭で昔話を語ることはほとんどなくなってきた。 だがそれに反比例して、昔話を本から覚えて語る人が全国で増えてきている。 お母さん、保育士、幼稚園の先生、図書館員などである。

 本に書かれた昔話をそらんじて語るのだから、大変な努力が必要なのだが、一度語る経験をした人は、子どもがひきつけられるように聴いてくれることを体験して、昔話を語ることの喜びと大切さを実感する。
 ところが、そこにひとつ、問題がある。 本に書かれた昔話の文体をよく見ると、それは、ほとんどの場合、語られる文体ではなく、読まれるにふさわしい文体になっていることが多いという問題である。

 なぜそうなるかと考えてみるに、昔話を再話して本にする人は、児童文学関係の人が多いだろう。 その人たちは、普段、文学作品を本で読んだり、自ら本に書いているだろう。 つまり、読まれるにふさわしい文章といつも付き合っているのである。
 ところが、昔話は読まれてはこなかった。 明治期以降では読まれることが多くなってきたが、昔話の伝承の歴史のなかでは、常に語られてきたのである。

 私は四十年ほど前までは、農村で実地調査をしてきたのだが、主として年寄りが子どもたちに昔話を語り聴かせていた。 子どもは、家庭でも、どこかに集まって場合でも、話に引き込まれて、集中して聴いていた。 子どもたちは、耳で聴きながら、その場面を見ていたことだろう。
 昔話は状況描写しないで、出来事を単純明快に語っていく。 だから聴き手は、聴きながらその場面を見ることができるのである。 状況描写は、目で読むときは楽しめるが、耳で聴くときには、かえってわかりにくいのである。

 耳で聴かせて楽しませる昔話は、出来事を写実的には語らない。 そして、同じ場面が来たら、同じ言葉で語ることを好む。 それが、聴き手に分かりやすいからである。 音楽で同じメロディーをくりかえすのと同じ作り方である。
 音楽も耳で聴かれるものだから、音楽と昔話は、極めて近い性質を持っている。 

 昔話を語るには、語れる文章の昔話を選ばなくてはならない。 ところが、上述のごとく、読む文章になった昔話本が圧倒的に多いので、自分で手を入れて、語れる文章にしなくてはならない。 語れる文章に再話しなおすには、それを強く意識した勉強が必要なのである。」

引用(抜粋) 「學士會報 第九五五号 2022ーW」p52〜 より
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posted by Fukutake at 09:43| 日記

アインシュタインの「ノー」

「聞かせてよ、ファインマンさん」 R.P.ファインマン 大貫昌子・江沢洋(訳) 岩波現代文庫 2009年

初めての講義 p265〜

 「学生時代、僕はホイーラー教授の研究助手をしていた。僕らは光のはたらきや、異なる場所にある原子のあいだの相互作用について、新しい理論をまとめあげたんだが、それが当時としてはなかなかおもしろい仕事だったらしく、セミナー係だったウィグナー教授が、講義をやれと言いだした。 ホイーラー教授も、君はまだ若いし、まだ講義をしたことがないんだから、そのやりかたを学ぶ絶好のチャンスだと言う。 だからこれが僕のはじめての専門的講義になったわけだ。
 (講義には訪米中の大物理学者パウリ教授や、数学者のフォン・ノイマン教授、近くに住むアインシュタイン教授も出席する)

 ホイーラー教授は質問には自分が答えてやるから、僕は講義をするだけでいい、と約束してくれた。

 いよいよ講義室に入って行ったときのことは僕はいまだに忘れられない。 生まれてはじめてなんだから、それこそ火の輪をくぐるようなもんだよ。 ずいぶん前もって黒板に方程式をみんな書いておいたから、黒板は方程式でいっぱいだ。 だいたい人はそんなにたくさんの方程式なんぞ喜ぶわけがない。 アイデアをよく理解するほうが大事なんだからね。 とにかく僕はいよいよ講義をはじめようと立ち上がったのを覚えている。 なにしろ聴講者のなかには、あの偉大な学者たちがズラリと顔をそろえているんだから、ただ恐ろしいなんてもんじゃない。 封筒から講義ノートを取りだすとき、手がどうしようもなくブルブル震えたのを、いまでもはっきり覚えているぐらいだ。 

 ところがノートを取りだして話をはじめたとたん、すばらしいことが起こった。 それ以来、いつも起こるありがたい奇蹟なんだが、好きでたまらない物理学の話さえしていれば、僕はもう物理学のことしか考えていない。 自分がどこにいようとだれが見ていようと、そんな心配はみんな消しとんで何も怖くなくなるんだ。

 だからそれ以後は講義はすらすら進んでいった。ただ全力を集中して僕らの仕事を説明していくだけだから、部屋の中にだれがいるかなど、もう考えもしなかった。 頭にあったのは自分が説明しようとしている問題のことだけ、それだけだ。 こうして僕の話が終わると質疑応答の時間になったが、答えるほうは
ホイーラー教授がやってくれる約束だから、もう心配ない。 と、アインシュタイン教授のとなりに座っていたパウリ博士が立ち上がった。 「ワシはこれこれという理由で、この理論が正しいとは思えない。 あれもありこれも考えなくてはならん。 どうです、アインシュタイン教授、そうは思われませんか?」とたずねたもんだ。 するとアインシュタインは「ノオー」と言ったが、あれはいままで聞いたなかでいちばん気持ちのいい「ノー」だったね。」

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posted by Fukutake at 09:38| 日記