2022年07月08日

シェイクスピア 名文句

「シェイクスピア名言集」  小田島雄志 著 岩波ジュニア新書 

 p70〜

 「楽しんでやらなきゃなにごとも身につきはしません。

 No profit grows where is no pleasure ta'en*.

『じゃじゃ馬ならし』第一幕第一場
 ピサのルーセンショーは、学芸の都パデュアにやってきて、ここで徳を修め哲学を学ぶことに専念したい、と決意する。それを聞いて召使いのトラーニオは、徳や修業も大事だがあまり凝りすぎるて堅物にならないように、と忠告したあと、このセリフを言う。
 その直後、じゃじゃ馬キャタリーナの妹ビアンカを一目見て、その貞淑な美しさにルーセンショーはたちまち心を奪われ、学問就業への決意を忘れ、恋に生き、この劇のサブプロット(脇役)をリードすることになる。

 トラーニオのこのセリフは、いかにもシェイクスピアらしくて、ぼくは好きである。学問でも芸術でもスポーツでも、身につけるためにはたしかに苦しい思いをすることもあるだろうが、その苦しさのなかに楽しみを見出さなければ、ほんとうの意味で自分のものとはならないだろう。
 シェイクスピアはどうやら学校へ行くのが楽しくない子だったらしい。『じゃじゃ馬ならし』でも、ビアンカの求婚者の一人グレミオが、
  学校から帰る子供のように喜ぶ勇んで…
と言っているし、『ロミオとジュリエット』でも、ロミオが、
  恋人に会う心は下校する生徒のようにうきうきし、
  恋人と別れる心は登校する生徒のようにうかぬもの。
と言っている。そのほか、全集中九回も出てくるschoolboyと三回出てくるschooldaysのイメージは、どれも楽しいものではない、おそらく彼は、学校の授業以外のものに楽しみを見つけて、のちにあれだけの作品を生むことになる才能をはぐくんだのだろう。」

ta'en : taken
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「下校する生徒」の気持ちとは、うまい言い方。

posted by Fukutake at 10:19| 日記

同情と反感の境目

「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年 

同情と反感の間 p119〜

 「京都のバスには老人や身体の不自由な人のために優先席というのがある。わたしも週に二回もしくは一回の外出にバスを利用しているので、これの恩恵に浴することが少なくない。もっとも、わたしはラッシュ時の混雑したバスに乗ったりするわけではないから、大ていは空いている優先席に坐ることができるわけである。空席の多い車に乗った時は、どこでも身近の場所に席を取るのだけれども、しかしこれは後ろから乗りこんで来る一般の人たちの席をふさぐことにもなるので、また優先席の方へ移ったりする。余計な心づかいをしなければならないのが、うるさい気もするが、優待してもらっているのだがら、やはりそんな心づかいも当然しなければならないことに思われたりする。

 老人問題というのが世間でやまかしく言われるようになったのは、比較的新しいことのように思われる。戦後むかしからの習慣が急激にこわされて行ったとき、老人の取扱いも変ってしまい、いろいろ不幸なことが生じたのではないかと思う。それがいわゆる公害さわぎとも関連して、新しく社会の関心を集めることになった。老齢年金とか医療の無料化とか、いろいろのことが行われるようになった。

 バスの優先席も七十歳以上の老人に無料乗車券をくれるのも、それの目立つ事例ということになるだろう。まずは有難いことだと言わなければならない。先日も地方都市に住んでいるわたしの従妹がやって来て、これを有難いことだと言っていた。彼女は戦後の長い年月、病夫の世話に当り、それが八十いくつかでできなくなるまで、いろいろ苦労してただろうと思われるのであるが、むしろこれからの余生を楽しみにしている様子だった。老年をどう生きるか、生活的条件の制約が大きいから、そう楽しいことばかり期待することもできないだろう。いわゆる老人対策的なことが、どもまで有効なのか、いろいろの批判や注文も出ているが、しかしとにかくわたしの従妹のような、一種の善良さをもった老人たちに、心から感謝を言われるようなものが、やはりどこかにあってほしいように思われる。老人問題はいわゆる老人対策だけで片づくわけのものでもないが、それが思いやりや同情から生まれ、感謝をもって受けとられるというような、相互の感応みたいなものが、それの支えになっていることが望ましいとも考えられるだろう。

 しかしそういう対策の進行とともに、そういう愛情とか感謝とかいうものの交流みたいなものは、次第になくなってしまうのではないか。例えば老人をいたわるというような感情も、これが優先席を設けるというような形で具体化されてしまうと、もうそれですんだことになり、急速に冷却して行き、かえって何か反感みたいなものが感じられるのではないか。弱者とか、被害者とか、被抑圧者とかいうものが、何かの境界のようなものを越えることによって、たちまち特権者となり、圧力的存在になったりする例は、今日われわれが日常見聞きするところではないか。この微妙な変化は、いわゆる公害さわぎにおいても、はじめは一般の同情を集めたものが、ある限度を越えると、次第に同情を失い、かえって反感を呼ぶようなことになる。
 この境目の感覚というのが、何かデリケートなものであって、わたしたちはうっかりすると見過ごしてしまう。…」

(文藝春秋 昭和五十年 九月号 「巻頭随筆」)

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posted by Fukutake at 10:14| 日記