2022年07月05日

ワーテルロー

「歴史の目撃者」  ジョン・ケアリー編  仙名紀訳  朝日新聞社 1997年

ワーテルローの戦い 一八一五年六月十八日午後二時〜三時 
イギリス第九十二高地連隊 R.ウインチェスター中尉 p161〜

 「戦闘を開始するに当たって、八千から一万人のベルギー軍が(イギリス)第五師団の前に隊列を組んでいた。しかし彼らは攻撃を受けるとすぐ、第五師団の間を縫って退却した。それ以後、ベルギー軍の姿を見かけなかった。その後、敵は数回、第五師団に向けて激しい攻撃を仕掛けてきた。午後二時か三時ごろ、三千から四千人くらいの縦列が、われわれのいる位置のはるか左手のライ・サントの近くから延びている幹線道路に沿って進軍してきた。このときはすでに第九十二連隊は身を伏せて隠れており、武器を構えるように命令されていた。デニス・パック少将が、号令をかけた。

「諸君、いたるところで戦果が上がっている。あの縦隊に向かって突撃するのが、わが軍の任務である。」
 少将は四列縦隊を組み、中心に向かって詰めて行くように命令した。敵から十八メートルほどのところにいたわれわれ九十二連隊は、一斉に射撃を浴びせ始めた。ちょうど道の端の植えこみにたどり着いた敵は、立て銃(つつ)から担(にな)え銃(つつ)に移るところだった。

 イギリス竜騎兵第二連隊の援軍が到着したのは、まさにこのときだ。彼らは、われわれの部隊の側面を、二重に固めた。われわれは彼らに中央の突破の口を譲り、両部隊は「スコットランドよ、永遠に」を雄叫びをあげながら、ともに突撃した。竜騎兵第二連隊は文字通り、敵を蹴散らした。三分もたたないうちに、敵は壊滅した。死傷者のほかに、二千人を捕虜にした。さらに鷹が描かれたナポレオンの軍旗を二竿、奪い取った。敵が縦列を組んでいた草原は、ほんの一瞬前にはフェニックスパーク(ダブリンのリフェイ河畔)の広場のように青々と美しかったのだが、たちまち死傷者に覆われ、背嚢とその中身、武器や装備などがばらまかれている。文字通りの足の踏み場もなく、何かを踏みつけずに歩くことはできなかった。この状況を目撃した者でなければ、これほど短時間に敵を壊滅できたことは信じられないだろう。

 重症で倒れているフランス兵のなかには、「皇帝万歳」と叫ぶ者もいた。また、逃げる敵を追ってゆくわれわれの兵に、銃を向けて追い討ちをかけようとする者もいた。

(Lietenannt R.Winchester, in H.T.Siborne(ed) , Waterloo Letters, 1891)

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posted by Fukutake at 07:49| 日記

死んでいられない

「菅江真澄」ー旅人たちの歴史2ー 宮本常一 未来社 

p184〜

 「若い人たちが迷信だとかいろんなことをいいますが、決してそんなことはないといわれるようなことが、現実にはあるわけなんですね。信ずるということの強さだと思うんです。そして今日、死んではならないということになると、おそらく伝染病でない限り、きっと死ななかったんじゃないかと思うんです。そういうことが私の経験の中にもあるんです。

 例えば、これを編集しました内田武志君というのは、何べんも死にかかっただけれど、いまも寝たままで菅江真澄全集を編んでいるので、これが出来上がるまでは死なないだろうとと思うのです。昭和一六年か一七年頃にこの人は危篤になりまして、もう今日の夕方頃が臨終だろうというので、私は渋沢(敬三)先生と一緒に訪ねていったのです。もう色があせて、唇なんか紫色になって、本当にもう気息奄々で、夜の九時までもてば良いんじゃなかろうかというところへ私は行ったんですが、この人は当時、星を研究しておったのです。星の方言を、私を相手に細々と話しておったのが、だんだん声が大きくなって頬っぺたが赤くなって唇が紅色になってきて、そしてとうとう夜九時頃までそこにおったんです。次第に元気になりました。お医者さんが今夜一二時頃が危ないというんで、それじゃ一度帰って来ようというんで渋沢先生と帰ったんです。すると、一二時になっても電話が来ないんです。朝になったら、元気になりましたと。それから後に、この人は、ともかく体が悪いから秋田へ引込んで秋田でやはり何回か死にかかっておったのです。それで、渋沢先生の弟子なもんで、また渋沢先生と一緒にお見舞いに行ったのです。すると、それからまた元気になって来ます。

 その時に、何をやろうかというんで、菅江真澄を研究したらいいだろうということになって、始めるんです。寝ている人が起きている人の研究をするのも良いじゃないかってことでやり始めるんです。ところがその後、この本ができる少し前ですがやはりもう駄目だっていうんで訪ねて行ったんです。その時に、「せっかく今までやって来たんだから、真澄のものを皆が読めるようなものを作っておこうじゃないか、そうでないと、あのむずかしい原文なんか読めるもんじゃないんだから。それを平凡社の東洋文庫で出してくれるから、やらないか」といったら、それから元気が出て来て、とうとうそれを五冊やり上げて、随筆集を一冊出しました。

 その後ずいぶん弱っていましたがまだもう少し生きていてほしいと思って今後は未来社に頼んで、原文の全集を出そうということになったら、また元気になって来て、彼は僕と同じ年だからもう六八歳になるのですが、まだまだ生きて仕事をつづけるでしょう。真澄全集が続く限り生きていると思うのです。…

 また山口県の西北のすみに粟野って所があります。そこに一人の年寄りがおりまして、自分の若い時の思い出を絵に描いていた。極く最近それを知っている人たちが本にして出してあげるといいだろうといったがもう気息奄々でほとんど寝たっきりなんです。時折り寝床の上に起き直れるくらいの状態になっておったんです。それを、私に声がかかって来たものだから、少し手を入れて良い本にして上げようということになったら、大分元気が出て来た。今度は、近いうちに私が訪ねていくってことになったら、起き直ってちゃんと絵が描けるようになったんです。ああいう人たちを見ていると、人間というのは、希望をもつというか何というか、そういうものがどれくらい生命力を強くするか、伝染病は仕様がないけれど、そうでない場合には、死ぬまいと思ったら死なないで済むようです。それが人によると、とにかく昭和十何年から今までですから三〇年くらい病弱なままで生きてすばらしい仕事をしているんです。

 医者も十分にいない、食べ物も良くない。そういう時代には何かを頼って人が生きて行くって時には、そういう一種の精神的な強さがあったんじゃなかったか。日本の底辺ともいわれる社会の人たちというのは、こういった強さを持って生きていたのじゃないかと思うのです。」

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事実は奇なり。
posted by Fukutake at 07:46| 日記