「漱石と漢詩」 渡部昇一 英潮社
伊藤博文の漢文 p130〜
「(伊藤)博文(の漢文)はどうか。彼は日本漢詩の流れの中で最高潮の一つといわれる明治の漢詩壇でも、政府高官としては副島種臣(号は蒼海)と並んで堂々たる地位を占めていた。伊藤博文は号を春畝といい、権威ありとされる日本の代表的文学全集に相当のスペースを占めている。
ではその博文の漢詩の質は如何。これは主観が入るから難しいが、松蔭、国臣、博文の辞世(博文の場合は暗殺であったので絶筆)を並べてみよう。
辞世 吉田松陰
今我為国死 今われ国のために死す
死不背君臣 死すとも君臣のそむかず
悠悠天地事 悠々たる天地の事
感賞在明神 感賞明神にあり
辞世 平野国臣
憂国十年 国を憂ふる十年
東走西馳 東に走り西に馳る
成否在天 成否は天にあり
魂魄帰地 魂魄地に帰す
(十月二十五日発奉天赴哈爾賓汽車中作)伊藤春畝
万里平原南満洲 万里の平原南満洲
風光闊遠一天秋 風光闊遠一天の秋
当年戦迹留余憤 当年の戦迹(せんせき)余憤をとどめ
更使行人牽暗愁 更に行人をして暗愁を牽(ひ)かしむ
三人の選んだ詩形がそれぞれ違う上に、辞世は上手下手で云々すべきでなく、又、博文のは辞世とは一寸ちがうから、比較商量は当をえたものではないが、少なくとも博文のものが前二者に劣るとは絶対に言えないであろう。南満洲の広漠たる、天も澄みきった秋景色を見て、数年前の日露戦争の大決戦場を追懐しているのである。「暗愁を牽かしむ」という感懐は、勝者の側から出たものとしては立派であり、それこそ「もののあはれ」といったものではないか。
博文は、一生を通じて折にふれて残した詩の数は相当なもので、詩心がなければできることではない。」
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英雄には毀誉褒貶はつきもの。
熱狂の果て
「中世の秋(上)」 ホイジンガ 堀越孝一訳 中公文庫
戦争と騎士道 p186〜
「十字軍計画を立案したのは、どんな連中であったか。その生涯をこのことにささげたフィリップ・ド・メジュールのような夢想家たち。そして、空想好きの政治家たち。たとえば、狡猾な打算の才をもちながらも、フィリップ善良候は、そのひとりであった。
この時代、なお王にして、イエルサレムの開放を生涯の仕事と考えぬものはいなかったのである。一四二二年、イギリスのヘンリー五世は、死の床についていた。このルーアンとパリの征服者は、フランスを悲嘆の底につきおとした征服行なかばにして、まだ若い生命を失うことになったのである。医者たちは、もはや二時間とは生きられまい、とかれに告げた。聴罪司祭をはじめ聖職者たちがあらわれて、七つの悔悛詩篇をうたいはじめた。「あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください」。ここまでうたいすすめられたとき、王は読誦を押しとどめ、はっきりとした声でこういったという、フランスに平和をもたらしたあかつきには、イエルサレム征服に赴く決心であった、「それだけの生命をながらえることが、つくり主御神の思召しにかなうことであるならば」。そういい終えた王は、詩篇読誦を続けさせ、終わるとまもなく息をひきとった。
十字軍は、すでに久しく、特別税をとりたてるためのいい口実にもなっていた。フィリップ善良候もまた、この機会を盛んに利用している。所有欲に発する偽善ということになろうが、ただ、そういいきってしまうことは、かれの場合、おおいにためらわれる。むしろ、本気と名誉欲とが混在しているのだ。トルコ征服という、きわめて有益で、同時にまた騎士道に徹した計画をたてることによって、キリスト教世界の救済者としての栄誉を自分のものにし、かくすることによって、上級身分者たるフランスおよびイギリスの国王にまさろうとしたのである。「トルコ遠征」は、決して場に出されることのない切り札にどまった、シャトランは、これは嘘ではないと、候が本気だったことを強調している。そしていうには、本気ではあったのだが、めんどうな障害が多すぎた。まだ機が熟してはいなかった。長老たちは、首をふり、殿みずから、その老齢をおして、かかる危険な遠征を試みされ、候国と候家の血筋を危険にさらされることに難色を示した、うんぬん。
すでに、法王からは十字軍旗がおくられ、これをうやうやしく拝受したフィリップ候は、それを押し立てて、ハーグの町に、ものものしい祭列を組んだ。リールでの祝宴の席上、そしてそののちも、遠征の誓約は、ぞくぞく集まった。ジョフロワ・ド・トワジはシリアの港を調査し、トゥールネの司祭ジャン・シュヴェロは献金を管理し、ギヨーム・フィラストルにいたっては、もうすっかり旅装をととのえ、遠征用の船もすでに徴発されていた。
ところが、けっきょくは遠征は行われないだろうとの漠たる予感が、一般にひろまっていたのである。リールで候じしんの誓約にしてからが、はなはだ用心深いものであったのだ、すなわち、御神より支配をゆだねられた国々が、平和なやすらぎのうちにあるならば、出発しよう、と。こういった政治的はったりの大法螺として流行したのだ。」
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威勢だけの十字軍
戦争と騎士道 p186〜
「十字軍計画を立案したのは、どんな連中であったか。その生涯をこのことにささげたフィリップ・ド・メジュールのような夢想家たち。そして、空想好きの政治家たち。たとえば、狡猾な打算の才をもちながらも、フィリップ善良候は、そのひとりであった。
この時代、なお王にして、イエルサレムの開放を生涯の仕事と考えぬものはいなかったのである。一四二二年、イギリスのヘンリー五世は、死の床についていた。このルーアンとパリの征服者は、フランスを悲嘆の底につきおとした征服行なかばにして、まだ若い生命を失うことになったのである。医者たちは、もはや二時間とは生きられまい、とかれに告げた。聴罪司祭をはじめ聖職者たちがあらわれて、七つの悔悛詩篇をうたいはじめた。「あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください」。ここまでうたいすすめられたとき、王は読誦を押しとどめ、はっきりとした声でこういったという、フランスに平和をもたらしたあかつきには、イエルサレム征服に赴く決心であった、「それだけの生命をながらえることが、つくり主御神の思召しにかなうことであるならば」。そういい終えた王は、詩篇読誦を続けさせ、終わるとまもなく息をひきとった。
十字軍は、すでに久しく、特別税をとりたてるためのいい口実にもなっていた。フィリップ善良候もまた、この機会を盛んに利用している。所有欲に発する偽善ということになろうが、ただ、そういいきってしまうことは、かれの場合、おおいにためらわれる。むしろ、本気と名誉欲とが混在しているのだ。トルコ征服という、きわめて有益で、同時にまた騎士道に徹した計画をたてることによって、キリスト教世界の救済者としての栄誉を自分のものにし、かくすることによって、上級身分者たるフランスおよびイギリスの国王にまさろうとしたのである。「トルコ遠征」は、決して場に出されることのない切り札にどまった、シャトランは、これは嘘ではないと、候が本気だったことを強調している。そしていうには、本気ではあったのだが、めんどうな障害が多すぎた。まだ機が熟してはいなかった。長老たちは、首をふり、殿みずから、その老齢をおして、かかる危険な遠征を試みされ、候国と候家の血筋を危険にさらされることに難色を示した、うんぬん。
すでに、法王からは十字軍旗がおくられ、これをうやうやしく拝受したフィリップ候は、それを押し立てて、ハーグの町に、ものものしい祭列を組んだ。リールでの祝宴の席上、そしてそののちも、遠征の誓約は、ぞくぞく集まった。ジョフロワ・ド・トワジはシリアの港を調査し、トゥールネの司祭ジャン・シュヴェロは献金を管理し、ギヨーム・フィラストルにいたっては、もうすっかり旅装をととのえ、遠征用の船もすでに徴発されていた。
ところが、けっきょくは遠征は行われないだろうとの漠たる予感が、一般にひろまっていたのである。リールで候じしんの誓約にしてからが、はなはだ用心深いものであったのだ、すなわち、御神より支配をゆだねられた国々が、平和なやすらぎのうちにあるならば、出発しよう、と。こういった政治的はったりの大法螺として流行したのだ。」
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威勢だけの十字軍
posted by Fukutake at 11:43| 日記