「ココロとカラダを超えてーえろす 心 死 神秘」 頼藤和寛 ちくま文庫 1999年
自殺志願者へ p178〜
「「なるほど、あなたは死にたいとおっしゃる。 つまり自殺ですね。 うちみたところ大事に使えばあと四、五十年はもちそうなのにねえ。」
「でも、もうこれ以上耐えられそうになんです…」
私は、さらにその後心理療法を専攻するようになった。
「だから、今のマイナスを一挙に自殺でゼロにしようというわけ?」
「ええ、生きているのがつらくてつらくて。 もう人間が辛抱できる限界を超えています。」
「別にひきとめようというのではないのですよ。 あなたの命に口出しするほどお節介ではないですからね。 ただコトをはっきりさせておきましょう。 せっかく自殺するんだから。」
「死んだほうがましなんです。」
「どうましなんですか?」
「今のような苦しみがなくなるでしょう。」
「たぶん、ね。ただし、苦しみがなくなったことに気がつくあなたもなくなるでしょうな。 死んだらどうなると思います?」
「何もかもなくなるんでしょうね。」
「何もかも、ね。 その何もかものうちに、あなたの今の苦しみも含まれるんですね。」
「それをなくしたいんです。」
「それだけを、ですか?」
「もし、できれば、の話ですが… それができない相談だから、死ぬことを考えるわけです。」
「なるほど、つまりこういうことですね。 本当は死にたくないのだけれど、死なないと今の苦しみはなくならない。 苦しんで生きるよりは死を選ぶ、と。」
「そうです。 誰だって死にたくて死にゃしません。 こんな事情だから死ぬしかないんです。」
「そんな事情がなければ話は別ですね。 つまり条件つきの自殺志望。」
「でも、誰にもどうもできないんです。 今の私の立場、私の気持ち、私の絶望。」
「今の、ね?」
「今までだってそうだったんです。 これからもずっとそうです。」
「八年三ヶ月前も、今のような気持ちでしたか?」
「え? ああ、まさか、あの頃は学生で、楽しかった。 でも今は違うんです。 何もかもダメになってしまって…」
「やっぱり、今は、ですね? ところで、どうして死にます。首つりですか、ガスですか、それとも…」
「できれば苦しくなくて楽な方法で。」
「ふむ。 注文が多いね。 一番気持ちのいいのは凍死といいますが、つまり睡り込むように死ねるらしいんでね。 死体もきれいだし。」
「もっと簡単なのはないんですか?」
「死体が汚くてもいいのなら出血死や飛び込みでしょう。 都市ガスは一酸化炭素が少なくなって死にくくなりましたねえ。」
「薬はどうなんですか?」
「一等いいのは青酸です。 アッという間ですから。 睡眠薬は致命率が低いし、死ぬまでに時間がかかってもてあましますよ。」
「じゃ、飛び降りるのがましですか?」
「あれは飛んでから落ちるまでの辛抱だから青酸並みでしょう。しかし後片づけが大変でねえ、ケチャップとミンチをかき集めるのが。」
「あ、あの、やっぱり首つりがいいかしら。」
「あれなら縄を切っておろすだけだから、飛び込みよりも始末が簡単で、電鉄会社から損害賠償の請求もこないしね。 ま、洟や小便を垂らしてみっともないけど、少し首がのびる程度で五体は繋がってる。」
「うーん、と。 先生はどれがいいと思います?」
…」
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グズグズしていると、あなた、寿命が来て死んでしまいますよ!
2022年07月22日
林芙美子 俳句
「林芙美子随筆集」 武藤康史編 岩波文庫 2003年
俳句 p193〜
「俳句と云うのは生きのいい魚のようなもので、文字がぴちぴちしていなくては心を打って来ない。…芥川龍之介の俳句を読んで、このひとは冷たいことばかり書いていたが、こんなのがいいのかしらと、私も一つ冷たいぞっとするようなものを書いてみようと、
硯(すずり)冷えて銭もなき冬の日暮かな
とつくって、当分うれしかったものであった。
旅へ出ると、私のようなものでも何か一筆と頼まれる折がある。仕方がないから、三つのうちの俳句をちゃんぽんに書くことにしているのだけれども、もうあきてしまって、何か名句を二、三句をつくりたいと思っている。 ー 和歌と云うものは、いままでに二十首ほどつくってみたが、私は大きな字を書くくせがあるので、たいていの色紙へ三十一文字書きれななってしまうのだ。俳句だとどんな大きい字で書いても伸々と書けて遠慮がない。
私が初めて俳句をつくったのは、十九の歳の頃で、小豆島の草壁と云う土地にいた頃、桃の花の美しいのをみて
村を出てここ二三丁桃の花
と云う、まるで尻とり俳句みたいなものをつくった。自分でもさっぱり判らないような句で、これを吉屋(信子)さんにひろうすると、吉屋さんは「そうね」と云って下すっただけだった。あとの二つは大切に黙っていて云わないつもりだったのだけれど、吉屋さんのお宅で何彼と御馳走になってしまったのでついうっかりして、二首ともひろうをしてしまった。
桐の花窓にしぐれて二日酔
吉屋さんは「あらなかかな意気だわ」とほめて下すったが、これはどうも小唄をもじったみたいで自信がない。堀の内の桐畑に住んでいた頃の句で、どうも写生風になって来ると、理におちていて面白くない。その次のが硯冷えてだけれど、これも真迫と云ったきびしいものがないのだ。
この間も、室生さんと百田(ももた)宗治さんたちでやっていらっしゃる俳句の会から「枝」と云う題を戴いて寝ても覚めても枝々やと考えていたのだけれど、さて枝を読みこんでとなるとなかなか難しい。
屋敷跡桜の枝に子供かな
と、ハガキに書いてみたが、これは来客の俳句のうまいひとに笑われてしまったので、返事を出さずしまい。」
−
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」林芙美子
俳句 p193〜
「俳句と云うのは生きのいい魚のようなもので、文字がぴちぴちしていなくては心を打って来ない。…芥川龍之介の俳句を読んで、このひとは冷たいことばかり書いていたが、こんなのがいいのかしらと、私も一つ冷たいぞっとするようなものを書いてみようと、
硯(すずり)冷えて銭もなき冬の日暮かな
とつくって、当分うれしかったものであった。
旅へ出ると、私のようなものでも何か一筆と頼まれる折がある。仕方がないから、三つのうちの俳句をちゃんぽんに書くことにしているのだけれども、もうあきてしまって、何か名句を二、三句をつくりたいと思っている。 ー 和歌と云うものは、いままでに二十首ほどつくってみたが、私は大きな字を書くくせがあるので、たいていの色紙へ三十一文字書きれななってしまうのだ。俳句だとどんな大きい字で書いても伸々と書けて遠慮がない。
私が初めて俳句をつくったのは、十九の歳の頃で、小豆島の草壁と云う土地にいた頃、桃の花の美しいのをみて
村を出てここ二三丁桃の花
と云う、まるで尻とり俳句みたいなものをつくった。自分でもさっぱり判らないような句で、これを吉屋(信子)さんにひろうすると、吉屋さんは「そうね」と云って下すっただけだった。あとの二つは大切に黙っていて云わないつもりだったのだけれど、吉屋さんのお宅で何彼と御馳走になってしまったのでついうっかりして、二首ともひろうをしてしまった。
桐の花窓にしぐれて二日酔
吉屋さんは「あらなかかな意気だわ」とほめて下すったが、これはどうも小唄をもじったみたいで自信がない。堀の内の桐畑に住んでいた頃の句で、どうも写生風になって来ると、理におちていて面白くない。その次のが硯冷えてだけれど、これも真迫と云ったきびしいものがないのだ。
この間も、室生さんと百田(ももた)宗治さんたちでやっていらっしゃる俳句の会から「枝」と云う題を戴いて寝ても覚めても枝々やと考えていたのだけれど、さて枝を読みこんでとなるとなかなか難しい。
屋敷跡桜の枝に子供かな
と、ハガキに書いてみたが、これは来客の俳句のうまいひとに笑われてしまったので、返事を出さずしまい。」
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「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」林芙美子
posted by Fukutake at 07:39| 日記
意識と心
「やぶにらみ脳生理学」 千葉康則 中公文庫 昭和六十二年
自己理解について p139〜
「この本で問題としてきた課題のひとつは脳と心の関係でした。そうして、動物も人間と同じように、その行動は脳によってコントロールされているので、動物と心の関係も問題にしてきたわけです。もっとも、心を直接に取り扱うのは、科学としては苦手なので、人間や動物の行動が脳のメカニズムとしてどのように説明できるか、また、言語を獲得して、人間の行動が動物とどのように違ってきたかを問題にしてきました。
そうして、あまり割り切ったいい方はできませんが、ふつう私たちが心とよんでいるようなものが動物には存在しないのではないか、そうして、人間の心はことばときわめて関連が深いのではないか、ということを示唆してきました。古くは、ヴィゴツキーの指摘あたりから出発した考え方です。このように書くと、人間について考えるときに、動物の話はそれほど重視しなくてもいいように思われるかもしれません。哲学だけでなく、人間について考える学問の中に、動物の行動にはほとんど考慮をはらわないものが少なくありません。しかし、人間の土台は動物なので、その土台を知らずに人間を考えるのは片手落ちではないかと思われます。極端にいえば、動物について語る場合には、人間について知らなくてもなんとかなるが、動物を知らずに人間を語ることはできないということです。
そこで、動物には心がない、または、動物は考えていない、ということは人間を理解する際に、なにを示唆することになるでしょうか。それは、人間行動の多くの部分が心または考えなしに生起している、ということです。動物も人間と同じように考えているとしてとらえる擬人化の傾向が強いのは、動物と人間の行動に共通した部分が多く認められるからです。人間行動の中の、その共通した部分が、実は心や考えがなくても生起する行動というわけです。ただし、そういう行動も心や考えに反映されます。
しかし、人間は自分のすべての行動は心や思考によってコントロールされていると思いこんでいるもので、そのことが人間行動の理解を大きく妨げています。この場合の心とは、自分にわかっている自分、というような意味です。そういう心とは別のメカニズムが人間を動かしている、という指摘はフロイト以来の深層心理学によって行われてきて、フロイトやユングがブームになってきているのに、自分のことは自分にわかっている、という思いはいまだに多くの人を支配しています。
ただ、フロイトは内省の世界(自分にわかっている自分の世界)から出発しているが、パブロフは客観的現象から出発しているという点で、より科学的とはいえるでしょう。この辺の問題については、自分にわかっている世界とわからない世界の接点に実存主義の世界が存在しているのではないかと思われます。」
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無意識と意識との接点
自己理解について p139〜
「この本で問題としてきた課題のひとつは脳と心の関係でした。そうして、動物も人間と同じように、その行動は脳によってコントロールされているので、動物と心の関係も問題にしてきたわけです。もっとも、心を直接に取り扱うのは、科学としては苦手なので、人間や動物の行動が脳のメカニズムとしてどのように説明できるか、また、言語を獲得して、人間の行動が動物とどのように違ってきたかを問題にしてきました。
そうして、あまり割り切ったいい方はできませんが、ふつう私たちが心とよんでいるようなものが動物には存在しないのではないか、そうして、人間の心はことばときわめて関連が深いのではないか、ということを示唆してきました。古くは、ヴィゴツキーの指摘あたりから出発した考え方です。このように書くと、人間について考えるときに、動物の話はそれほど重視しなくてもいいように思われるかもしれません。哲学だけでなく、人間について考える学問の中に、動物の行動にはほとんど考慮をはらわないものが少なくありません。しかし、人間の土台は動物なので、その土台を知らずに人間を考えるのは片手落ちではないかと思われます。極端にいえば、動物について語る場合には、人間について知らなくてもなんとかなるが、動物を知らずに人間を語ることはできないということです。
そこで、動物には心がない、または、動物は考えていない、ということは人間を理解する際に、なにを示唆することになるでしょうか。それは、人間行動の多くの部分が心または考えなしに生起している、ということです。動物も人間と同じように考えているとしてとらえる擬人化の傾向が強いのは、動物と人間の行動に共通した部分が多く認められるからです。人間行動の中の、その共通した部分が、実は心や考えがなくても生起する行動というわけです。ただし、そういう行動も心や考えに反映されます。
しかし、人間は自分のすべての行動は心や思考によってコントロールされていると思いこんでいるもので、そのことが人間行動の理解を大きく妨げています。この場合の心とは、自分にわかっている自分、というような意味です。そういう心とは別のメカニズムが人間を動かしている、という指摘はフロイト以来の深層心理学によって行われてきて、フロイトやユングがブームになってきているのに、自分のことは自分にわかっている、という思いはいまだに多くの人を支配しています。
ただ、フロイトは内省の世界(自分にわかっている自分の世界)から出発しているが、パブロフは客観的現象から出発しているという点で、より科学的とはいえるでしょう。この辺の問題については、自分にわかっている世界とわからない世界の接点に実存主義の世界が存在しているのではないかと思われます。」
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無意識と意識との接点
posted by Fukutake at 07:35| 日記