「徒然草」 第二十六段
(現代語訳)
「風がまだ吹き過ぎてしまわないうちに早くも散ってしまう花のように、うつろいやすい人の心をあてにして、親愛の情をいだき続けてきた長い年月のことを思い返してみれば、しみじみと胸に刻み込むような思いで聞いた言葉のはしばしまでも、けっして忘れるものではないが、結局は自分とは無縁の人間になってゆくというのが、世間にはありがちなことだが、これは亡き人との別れ以上に悲しいものである。だからこそ、白い糸を見てそれがどんな色に染められてしまうことを悲しむ人や、道路が分れ道によって違う方向に向かってしまうことを、嘆く人もあったということである。堀川院の百首*の和歌の中に、
*昔見し妹(いも)が墻根は荒にけり つばな*まじりの菫(すみれ)のみして
(昔愛し合っていた女(ひと)の家に久しぶりに訪ねてきてみると、そこの垣根はすっかり荒れはててしまっている。茅(ちがや)の生い茂った中に、わずかに菫が可憐な花を咲かせているばかりで…。)
この歌のもつものさびしい雰囲気から察すると、作者にはこういう体験があって詠まれたものだったでしょう。」
堀川院の百首* 堀河天皇の康和年間に十六人の廷臣が一人百首ずつ詠進した。
*昔見し… 藤原公実の歌
つばな* 茅の木あるいは、白い茅の花
(「イラスト古典全訳 徒然草 橋本武 日栄社 p43〜)
(原文)
「風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になりゆくならひこそ、亡き人の別れよりもまさりてかなしきものなれ。
されば、白き糸の染まんことを悲しび、路のちまたの分かれんことを歎く人もありけんかし。堀川院の百首の歌の中に、
昔見し妹が墻根は荒れにけりつばなまじりの菫のみして
さびしきけしき、さる事侍りけん。」
(岩波文庫「新訂 徒然草」p58〜)
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自らが老いた鏡
民主制の放埒
「田中美知太郎全集 26」 筑摩書房 平成二年
民主制と自由 p264〜
「われわれはまずプラトン自身が民主制と自由について語っていることを、もっとくわしく見て見なければならない。
「何でもしたいことをしていいのだとすると、この国ではめいめいは自分の生活をめいめい気のいるような独自のやり方でやって行くことになるのは明白だ。 …そうだとすると、この体制の下にはありとあらゆる種類の人間の出てくる可能性が最も多いだろうと思う。 …恐らくこれはもろもろの国制のうちで一番美しいだろう。ちょうどあらゆる華やかな色で多彩に色どられた衣装のように、この国制もあらゆる趣向によって多彩に色どられているから、一番美しく見えるかも知れない。そして多分またこの国制を、あたかも子供や女たちが多彩に色どられたものを観て判断するのと同じように、一番美しいと判断する人も多いことだろう。(『国家』)
ということが、何でも好きなことのできる自由のあたえられている国制の特性としてまず第一に語られる。
この国制は見た目にはたしかに美しく、そこでの暮らしは、その現実においてはたしかに至極「楽しい」ものであると言わなければならない。しかし各人がめいめいに何でも好きなことが出来る国制はその許容性においてまことに驚くべき国制であると言わなければならないだろう。
「きみはまだ見たことがないかね、このような国制の国において死刑とか追放刑とかの判決を受けた人たちが、それでもかまわずこの国にとどまって、人なかを徘徊し、まるでこの世の人でない者がこの世に戻って来て、誰ひとりこれを見る人も気にとめる人もないかのようにそこらを歩きまわっているのをね。
ええ見ましたとも、たくさんに。」
という問答は、これがこの国でしばしば見られる事実であることの証言とも解することができるだろう。この人たちの「泰然自若ぶり(おおらかさ)」は何によるのだろうか。「何とも天晴れではないか」この「ものわかりのよさ」と「およそ勘定のこまかさなどないこと(太っ腹)」は、やがて、
「誰が出て来て国事を行うとしても、ただ一般庶民に好意をもつ者であるというようなことを口にしさえすれば、これを尊重する。」
というようなことになり、
「民主制こそ快適な国制であって、上に立って支配するものもなく、多種多様の色どりあざやかと見られるものであり、等しい者にも等しくない者にも一種の平等を割り当てる。」
と言われることになる。国事を担当する者は、ただ「国民大衆のために」というようなことを言いさえすれば誰でもなれるというのは、財産をもっていれば誰でも船を動かすことが出来るとする寡頭制の場合とあまり違わないということであり、体力のちがう人たちに同じ重さの荷物をかつがせるような機械的な平等主義も、「誰でも同じように」という民主主義の一つの帰結として出てくるということである。この国制はプラトンが何度も「快適」と形容しなければならなかったように、その場その場では、最善の国制とも見えるのであるが、それはその時その時の瞬間的なことであって、このかりそめの天国がいつまでつづくのか。永遠性はプラトンの最善の国家にも保証されるものではないことをわれわれは見たのである。」
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民主制はいつかは崩壊する。
民主制と自由 p264〜
「われわれはまずプラトン自身が民主制と自由について語っていることを、もっとくわしく見て見なければならない。
「何でもしたいことをしていいのだとすると、この国ではめいめいは自分の生活をめいめい気のいるような独自のやり方でやって行くことになるのは明白だ。 …そうだとすると、この体制の下にはありとあらゆる種類の人間の出てくる可能性が最も多いだろうと思う。 …恐らくこれはもろもろの国制のうちで一番美しいだろう。ちょうどあらゆる華やかな色で多彩に色どられた衣装のように、この国制もあらゆる趣向によって多彩に色どられているから、一番美しく見えるかも知れない。そして多分またこの国制を、あたかも子供や女たちが多彩に色どられたものを観て判断するのと同じように、一番美しいと判断する人も多いことだろう。(『国家』)
ということが、何でも好きなことのできる自由のあたえられている国制の特性としてまず第一に語られる。
この国制は見た目にはたしかに美しく、そこでの暮らしは、その現実においてはたしかに至極「楽しい」ものであると言わなければならない。しかし各人がめいめいに何でも好きなことが出来る国制はその許容性においてまことに驚くべき国制であると言わなければならないだろう。
「きみはまだ見たことがないかね、このような国制の国において死刑とか追放刑とかの判決を受けた人たちが、それでもかまわずこの国にとどまって、人なかを徘徊し、まるでこの世の人でない者がこの世に戻って来て、誰ひとりこれを見る人も気にとめる人もないかのようにそこらを歩きまわっているのをね。
ええ見ましたとも、たくさんに。」
という問答は、これがこの国でしばしば見られる事実であることの証言とも解することができるだろう。この人たちの「泰然自若ぶり(おおらかさ)」は何によるのだろうか。「何とも天晴れではないか」この「ものわかりのよさ」と「およそ勘定のこまかさなどないこと(太っ腹)」は、やがて、
「誰が出て来て国事を行うとしても、ただ一般庶民に好意をもつ者であるというようなことを口にしさえすれば、これを尊重する。」
というようなことになり、
「民主制こそ快適な国制であって、上に立って支配するものもなく、多種多様の色どりあざやかと見られるものであり、等しい者にも等しくない者にも一種の平等を割り当てる。」
と言われることになる。国事を担当する者は、ただ「国民大衆のために」というようなことを言いさえすれば誰でもなれるというのは、財産をもっていれば誰でも船を動かすことが出来るとする寡頭制の場合とあまり違わないということであり、体力のちがう人たちに同じ重さの荷物をかつがせるような機械的な平等主義も、「誰でも同じように」という民主主義の一つの帰結として出てくるということである。この国制はプラトンが何度も「快適」と形容しなければならなかったように、その場その場では、最善の国制とも見えるのであるが、それはその時その時の瞬間的なことであって、このかりそめの天国がいつまでつづくのか。永遠性はプラトンの最善の国家にも保証されるものではないことをわれわれは見たのである。」
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民主制はいつかは崩壊する。
posted by Fukutake at 07:46| 日記
2022年07月25日
誤審による冤罪
「ことわざの知恵・法の知恵」 柴田光蔵 講談社現代新書 1987年
石が流れて木(こ)の葉が沈む p88〜
「中国の諺に由来する命題で、「物事のありようが道理とは逆になっていること」をさし示しています。 法の世界でこういうことはないのでしょうか? この点について考えてみることにしましょう。
かりに、「石が流れる」のを「悪事を働いた者が罰をのがれさる」と理解するとしますと、法がこのことを許しているところもあるのです。 公訴の時効というものが設けられていまして、相当な年月、国内を逃げまわっていれば、罪に問われなくなりますし、もちろん、犯人が犯行をうまくかくして捜査のアミにひっかからないことも少なくないでしょう。 また、起訴されても、「疑わしい場合は、被告人に有利に判断されるべきである」式で、有罪においこめず無罪放免が生ずるケースも、わずかですがあります。 こういうものは、全体として見れば、大きなメリット(利点)のために見すごさなければいけないマイナス要素なのではないでしょうか? 法がすべて完璧に不足なく面倒をみるようなことはそもそも無理な注文なのです。
問題は、それよりも「木の葉が沈む」場合なのです。 つまり、潔白な人が、何かわけのわからない因果の鎖にからみつかれたあげくに、地獄に舞いおちる白金の葉のようにして、有罪判決においこまれ、刑をうけてしまうことがあるのです。 処刑された死刑囚を何十人となく同じ運命の死の淵で見送り、自らは再審で無罪となって社会に復帰してきたかつての死刑囚は、死刑囚仲間のなかには無実らしい人も何人かはあったと語っていました。
ここで死刑をもちだしたのは極端すぎるとしましても、もっと軽い刑罰や行政罰(たとえば罰金)を、思いあたるフシもまったくないままに科せられる事例は日常的に少なくないはずです。 こういうとき、「良心になんらやましいところはないのだから、それはそれでよいとしよう」と自らにいいきかせ、とにかくふってわいた不運の前をできるだけ早く通りすぎてすべてを忘れさってしまいたいと思って、事態のなりゆきに耐える人もかなりいらっしゃるのではないでしょうか。 「不徳のいたすところだ」と自戒される、よくできた人もまれにはあるでしょう。 もっとも、権利とか権利の侵害にはことさら敏感になっている最近の人々には、こういう受け身の生きざまは笑止千万というところかもしれませんね。 それでも、東洋人には、宗教のせいなのか、風土のせいなのか、よくわかりませんが、「あれは災難だ」とあきらめる向きも多いようですから、日本人のこの性質はなかなか根強いと思います。
それで日本の現状にあてはめて考えをめぐらせてみますと、司法当局(警察。検察、裁判所)は、世界のレベルにくらべかなり上位にランクされるように私個人には思われるのですが、最近たてつづけに出た死刑再審無罪や再審開始のことを考慮すると、そう手放しでが喜べません。 氷山の一角がわれわれの視野に突出してきただけで、水面下にはかなりの同質の問題が伏在していると見るべきなのが本当ではないでしょうか。」
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犯罪捜査や被疑者への過剰な「真実追求」尋問など、誤りが無にしも有らずでしょう。
石が流れて木(こ)の葉が沈む p88〜
「中国の諺に由来する命題で、「物事のありようが道理とは逆になっていること」をさし示しています。 法の世界でこういうことはないのでしょうか? この点について考えてみることにしましょう。
かりに、「石が流れる」のを「悪事を働いた者が罰をのがれさる」と理解するとしますと、法がこのことを許しているところもあるのです。 公訴の時効というものが設けられていまして、相当な年月、国内を逃げまわっていれば、罪に問われなくなりますし、もちろん、犯人が犯行をうまくかくして捜査のアミにひっかからないことも少なくないでしょう。 また、起訴されても、「疑わしい場合は、被告人に有利に判断されるべきである」式で、有罪においこめず無罪放免が生ずるケースも、わずかですがあります。 こういうものは、全体として見れば、大きなメリット(利点)のために見すごさなければいけないマイナス要素なのではないでしょうか? 法がすべて完璧に不足なく面倒をみるようなことはそもそも無理な注文なのです。
問題は、それよりも「木の葉が沈む」場合なのです。 つまり、潔白な人が、何かわけのわからない因果の鎖にからみつかれたあげくに、地獄に舞いおちる白金の葉のようにして、有罪判決においこまれ、刑をうけてしまうことがあるのです。 処刑された死刑囚を何十人となく同じ運命の死の淵で見送り、自らは再審で無罪となって社会に復帰してきたかつての死刑囚は、死刑囚仲間のなかには無実らしい人も何人かはあったと語っていました。
ここで死刑をもちだしたのは極端すぎるとしましても、もっと軽い刑罰や行政罰(たとえば罰金)を、思いあたるフシもまったくないままに科せられる事例は日常的に少なくないはずです。 こういうとき、「良心になんらやましいところはないのだから、それはそれでよいとしよう」と自らにいいきかせ、とにかくふってわいた不運の前をできるだけ早く通りすぎてすべてを忘れさってしまいたいと思って、事態のなりゆきに耐える人もかなりいらっしゃるのではないでしょうか。 「不徳のいたすところだ」と自戒される、よくできた人もまれにはあるでしょう。 もっとも、権利とか権利の侵害にはことさら敏感になっている最近の人々には、こういう受け身の生きざまは笑止千万というところかもしれませんね。 それでも、東洋人には、宗教のせいなのか、風土のせいなのか、よくわかりませんが、「あれは災難だ」とあきらめる向きも多いようですから、日本人のこの性質はなかなか根強いと思います。
それで日本の現状にあてはめて考えをめぐらせてみますと、司法当局(警察。検察、裁判所)は、世界のレベルにくらべかなり上位にランクされるように私個人には思われるのですが、最近たてつづけに出た死刑再審無罪や再審開始のことを考慮すると、そう手放しでが喜べません。 氷山の一角がわれわれの視野に突出してきただけで、水面下にはかなりの同質の問題が伏在していると見るべきなのが本当ではないでしょうか。」
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犯罪捜査や被疑者への過剰な「真実追求」尋問など、誤りが無にしも有らずでしょう。
posted by Fukutake at 12:34| 日記