2022年06月28日

説得力と正義とは別

「プラトン W ー 政治理論ー」田中美知太郎 著 岩波書店刊行

第三章 治国の理想
治国の技術的限界 p178〜

 「われわれはここでもう一度プラトンが「正しい国制」と呼び、「これだけが唯一の国家あるいは国制である」としたものを取り上げて、そこにおける知識あるいは技術の法律への優越性というものを見てみなければならない。

  『ちょうど船長が船と乗組員との利益をいつも注意深く守護しながら、文章を作成することによってではなく、むしろ技術を法となし、同船の乗客たちの安全を確保するのと同じその仕方で、統治(支配)する能力をもつ人たちがその技術の強い力をもろもろの法規よりも上に置くことによって、正当な国制がつくられるだろう。』(『国家』)

という言葉は、ただし国制あるいは国家体制が、治国の知たる統治の技術を原理的には法規の上にあるものとすることによってつくられるとする主旨のものであると解することができるだろう。これはさきにも見られた、国制が正しい体制であるか否かは、統治する人が真実に知識をもっているか否かによるのであって、法律に従って統治しているかどうか、被治者の同意を得ているかどうかというようなことは少しも問題にならないとする考えに通ずるものであるが、ここではそのうちの法律を一応問題にして、これとの関係において統治の知が優越していることが正しい国家体制を成立させる条件と見ているわけである。つまり見地がいくらか違っているわけであるが、むろん主意は同じだとしなければならないだろう。しかし法律と知識とはすぐにこれを上下の関係においたり、対立させたりすることができるものなのかどうか。両者は全く別の種類のものであって、これを対立や上下の関係に置くことはできないとも思われるだろう。プラトンの説明では、法律はすぐに文字に書かれたものとして語られるので、これだと『パイドロス』で見たような文字化への批判が思い出され、法律も文字に書かれたものとして、文字化されない知識そのものに対立させられるかも知れない。しかし文字にされない法律はいわゆる不文の法であって、対立は同じ法律について、それが文字化されているか否かというだけの対立であって、知識と法律の対立と同じだとは考えられなくなる。法律に書かれているのは知識ではなく、人びとがそう思ったこと(ドクサ*)にすぎないとも考えられる。議会で評決されたことがすなわちドクサとも呼ばれ、法律となるのである。しかしプラトンが本来の治者に期待しているのは、本当の技術、知識なのであって、ドクサではないのである。だから法律は成文化されていてもいなくても、それがドクサにすぎないものである限り、知識とはきびしく区別されなければならない。プラトンの治国の知と法律との区別は、このようにして法律をドクサに置き代えることによって一応の理解を得ることができるかも知れない。…

 このようにしてわれわれは、治国の知の位置づけというようなものを、例えば弁論術とか用兵軍略の術あるいは司法の術などに対して、それがこれらの上に立って支配や指図や命令をする地位にあることを見たのであり、国制が正規正当なものであるか否かは、その統治や支配が完全にこの治国の知に即して行われているか否かによるものであり、これこそ正規正当の国制が正規正当であることの本質的条件をなすもの、正しい国制の心魂と知性とも言うべきものであって、いまこの正規正当の国制が他の地上の国制によって模写される原形として言わば一つのイデア的存在であるとするなら、この治国の知はちょうどこれに対応するイデア認識の知に匹敵するものと考えられたのである。」

ドクサ* 、思惑、思いなし等と訳され、「思い込み」という意味

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ワイドショーのドクサと現実の真の治国の策とは全く別。
posted by Fukutake at 07:15| 日記

死を受け入れる前に老いゆく自分を認めろ

「死を受け入れること ー生と死をめぐる対話ー」 小堀鷗一郎x養老孟司 祥伝社 2020年

医者のリスク p171〜

 「小堀 学生の頃、神経内科の沖中重雄先生が最終講義で、「自分の誤診率は何%だった」とおっしゃったんです。ただ、それは全て取り返しのつかないような間違いだったわけではないのですが、細かい神経の疾患の中で、ここがやられていると思ったら隣がやられていたとか、そういうものを含めての話でした。
 最近のように患者を取り違えたとか、腎臓の悪くもない人の腎臓を取ってしまったという手術時のミスと、沖中先生が言ったような誤診とはまた分けて考えないといけないと思います。

 養老 一番大変なのは産科です。障害のある子が生まれたりすると、訴訟になることがあります。産科の先生に真面目に言われたことがありますよ。「こんなに訴訟をやってばかりいたら、産科の医者がいなくなります」って。
 余命告知もどんどん短くなっているんです。一年と言って、六ヶ月で死んだらヤブ医者、と怒られるから短めに言うんです。

 小堀 検診で見つからなかった胃がんが何年か後に見つかった、というのは僕も難しいと思います。

 養老 そんなの見落として当たり前ですよ。そこまでチームがうまく回るはずはないんだから。健康診断なんて何件もやるわけでしょう。しかもいわゆる健康な人を診るんだから。

 小堀 で、ほとんど何もないからね。

 養老 そうするとどうしても慣れが出ます。だから医者はやっぱり具合が悪いから診てもらうのが正しいんです。元気なうちに行く必要はない。
 東大病院の外来でケンカをしているのを見かけたことがあります。「検査の結果、あなたはなんともありません」と言われて、患者が、「でも先生、私は具合が悪いんです」と訴えていました。
 それを見て、「医者の仕事って何なんだろう」と思いました。うちの母なんか結局そうです。八十歳過ぎるまで医者をやっていたんですから。「先生のお母さんは偉いですね」と言われましたけど、誰が死にそうな医者に診てもらいたいですか。要するに相談相手なんです。

 小堀 そういうことを求める患者さんも多いです。これも人間関係ですから。

 養老 国際学会の発表で、献体を希望する人の理由を調べた発表があったんです。一番多いのが、お医者さんの世話になったから、医学の発展の役に立つならというもの。第二位は、ちょうど逆で、医療でひどい目に遭ったからもうちょっと勉強してもらいたい、と。で、五位ぐらいに、本当に面白いと思ったのが、遺族に対する面(つら)当てという回答。生きている間大事にしてくれなかったから、解剖に行ってやると。こういう感情は世界共通にあるんです。」

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腹いせ献体
posted by Fukutake at 07:11| 日記