2022年06月17日

量子から見た世界

「偉大なる宇宙の物語 ーなぜ私たちはここにいるのか?ー」 ローレンス・クラウス 塩原通緒訳 青土社 2018

宇宙は小説より奇なり p105〜

 「  ですから、あなたがたの確信を捨ててはいけません。それには大きな報いがあるのです。 ー「ヘブライ人への手紙」十章三十五節

 世間一般には、われわれを取り巻く宇宙を説明するのにいかれた奥義を発明するのが大好きなのが物理学者というもので、なぜそんなことをするかと言えば、ほかにやることがないからか、ことさらにひねくれているからだろう、と思われているのかもしれない。しかしながら、量子世界が初めて姿を現した時の経緯が実証するように、たいていの場合は、むしろ自然のほうが私たち物理学者を、いくら騒いで抵抗しようとおかまいなしに、見慣れた安全な世界から引きずり出しているのである。
 とはいえ、私たちを量子世界へと突き進ませたパイオニアたちがただ流されいたのかと言うと、それもまた大きな語弊がある。彼らは前例のない、案内人もいない航海に乗り出したのだ。彼らが踏み入った世界はあらゆる常識と、あらゆる古典的論理を平然と無視するところだったから、彼らはいつどこでルールが変わるかと、つねに備えていなければならなかった。

 よその国に足を伸ばしたときのことを想像してみればいい。そこの住人はみな知らない言葉をしゃべり、そこでの法則は、あなたが生まれてこのかた経験したこともないようなものにもとづいている。そのうえ、交通信号が隠されていたり、行く先々で変わるようなものだったりしたら、そう考えてみれば、二十世紀前半に自然についてのわれわれの理解を一変させた威勢のいい若手物理学者たちが、どんなところへ向かっていたか察しがつくだろう。

 量子の奇妙な新世界を探るのと、新たな景色をめぐる旅に乗り出すのとを類比するのは、こじつけのようにおもえるかもしれない。まさにその二つを自らの人生で平行させたのが、ほかならぬ量子力学の創始者のひとり、ヴェルナー・ハイゼンベルグである。一九二五年のある夏の晩、ヘルゴラント島という北海に浮かぶ美しいオアシスで、自分がかの理論を発見したと気づいたときのことを、のちにハイゼンベルグはこう回想している。

 午前三時ごろのことだった。その直後、目に前に計算の最終結果があった。そのエネルギー原理はすべての項に当てはまっていた。私の計算が指し示している量子力学の無矛盾性と一貫性に、もはや疑いは持てなかった。最初は私もひどく不安を覚えた。自分が原子の現象を表面下にある、不思議に美しい内部を見ているような気がして、自然が寛大にも私の前に広げて見せてくれた、この豊かな数学的構造をこれから探らなければならないのだと思うと、めまいがしそうだった。興奮して眠れそうもなかったから、新しい一日が明けようとしているなかで、私は島の南端に向かうことにした。そこの海に突き出た岩にかねて登りたいと思っていたのだ。そしていまや、私はほとんど苦労することなくそれを実現しながら、太陽が昇るのを待っていた。」

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posted by Fukutake at 08:01| 日記

漱石サンド

「漱石、ジャムを舐める」 河内一郎 新潮文庫 平成二十年

サンドイッチ p47〜

 「『三四郎』から、弁当のサンドイッチを食べるシーンである。

  二人が書斎から廊下伝いに、座敷へ来て見ると、座敷の真中に美禰子の持って来た籃(バスケット)が据えてある。蓋が取ってある。中にサンドウィッチが沢山這入っている。美禰子はその側に座って、籃の中のものを小皿に取り分けている。

 明治後期から大正時代にかけての日比谷公園内、松本楼のメニューにもサンドイッチ二〇銭と載っている。

「三四郎』では、広田先生の引越しで、美禰子が作ってきた弁当はサンドイッチであった。「新しい女」美禰子に、漱石は握り飯ではなくてサンドイッチを作らせた。「バスケットの中にサンドイッチが沢山入っている」と書いてあるが、何が挟んであったかは触れていない。中味がなんであったか、興味深い。
 当時の人は、現在の感覚では想像もつかないくらい大食漢であった。そこで美禰子も沢山のサンドイッチを作って大きなバスケットに入れて持って来たのであろう。その大きなバスケットを持ってきたことで、与太郎からひやかされることになる。

 漱石はロンドン留学中にサンドイッチを頻繁に食べたものと思われる。官費で支給される留学費では生活の苦しかった漱石は、古本を買い、下宿で猛勉強をしていた。特に昼食はビスケットやサンドイッチで済ますことも多かったと、『道草』の中に書いている。

 漱石にとって、学生時代に毎日、嫂(あによめ)の登世の作ってくれた弁当は、生涯のうちで最も思い出深い昼食弁当であったと思われる。
 登世は慶応三年(一八六七)生まれで漱石と同じ年であった。漱石が毎日学校へ持って行く、登世の作る弁当は、決まって竹の皮に包んであったそうである。
 次男の伸六氏はこの嫂について、こう記している。
 「私には、何だか、この嫂が、毎朝、義弟の為に、心をこめて、その海苔巻をつくってやったのではないかと云う気さえする。」(『父・漱石とその周辺』)

 登世は悪阻のため、明治二十四年七月二十八日、二四歳三か月で夭折した。漱石は正岡子規宛の書簡でその死を惜しんで、悼亡の句、一三句を書き連ねている。そのうちの六句を紹介する。

   朝貌や咲た許りの命哉
   人生を二五年に縮めけり
   君逝きて浮世に花はなかりけり
   何事そ手向し花に狂う蝶
   聖人の生れ代りか桐の花
   今日よりは誰に見立ん秋の月」



 
posted by Fukutake at 07:56| 日記