2022年06月14日

江戸末の司法

「旧事諮問録」 江戸幕府役人の証言(上) 旧事諮問会編 岩波文庫

司法の事(評定所) 明治二十四年三月二十一日 答問者(旧幕 評定所留役御目付、奈良奉行 小俣景徳 

拷問 p129〜

 「問 拷問の時は、どうでありますか。
答 拷問は牢屋敷でするのであります。人を殺したには違いない、証拠がちゃんとあっても、言う事を聞かんで、種々陳じますから、それで仕方がないから牢屋敷へ遣って拷問するのであります。先ず石を抱かせるのであります。玄葉石*を一枚載せ、二枚載せ、三枚載せるというようにして、酷くなると揺すぶったのであります。それでも強情の奴は言いませぬ。それは、牢屋の与力と同心が出てするのであります。
問 ほかに聞く人はありませぬか。
答 ほかに聞く人はおりませぬ。これまでに罪状を調べたが白状せぬから、これだけの事を聞けという書付が来ているから、それに依って拷問するのであります。
問 青木弥太郎*という者がおりましたな。
答 ああいう者になってくると、拷問へ掛かるのであります。それでも、言わんでしまったのであります。
問 あれは強盗ですな。
答 さよう、詐欺もある。
問 それから、坪内五郎左衛門などは、あれも拷問ですか。
答 さよう、あれも拷問をされたのであります。
問 拷問は八代将軍の時に止められたけれども、また起こったのでありますか。
答 なるべく拷問はするな、というのであります。それゆえめったにないので、一年に一度もあるかなしかであります。
問 拷問の仕方は、たいがい石でありましたか。
答 海老責というのがあります。梁に吊るし上げて、顔が肛門につくようにしたのであります。先ず、たいがいは石でしたのであります。
問 眠らせない責め方がありましたか。
答 それはないようです。
問 何か食物を与えぬということがありましたか。あるいは、塩をやらぬとか水をやらぬとかいうような事がありましたか。
答 それは決してないのであります。それらの法律は徳川氏になってからきまって来たので、昔は誠にきまりがないので、太閤が石川五右衛門を油責にしたのであります。ずいぶん惨酷な事をしたのであります。
問 白状するまではするのでありますか。
答 さよう、申し上げますと言うと、そこで取り除けて医者が療治するのであります。
問 白状しなければ、罪に落とす事はありませぬか。
答 さよう、拇印をしなければ拷問を止めぬのであります。
問 拇印をしなければ、終始牢へ打ち込んで置くのでありますか。
答 さよう、どうも仕方がありませぬ。
問 年限がありますか。
答 年限はないようであります。」

玄葉石* 長方形の板石、敷石や蓋石に用いる。

青木弥太郎* 幕末の盗賊。幕府の旗本。武田耕雲斎の一族武田伊織と称し,尽忠報国をとなえ江戸で強盗をはたらく。慶応元年(1865)恋人お辰,小倉庵長次郎らとともに本所で捕らえられる。明治元年大赦で釈放され,のち王子で料理店をひらいた。

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posted by Fukutake at 10:04| 日記

東京空襲

「荷風の昭和」 川本三郎  新潮社「波」 2021年12月号 より

p122〜

 「(昭和十九年七月サイパン島が陥落し、そこから大型爆撃機B29を発進させたため、以降は、米軍による日本本土空襲が本格化した。)
 当時、警視庁に勤めていて東京空襲を撮影したことで知られる明治三十七年生まれの写真家、石川光陽の『グラフィック・レポート 東京大空襲の全記録』によれば、昭和十九年十一月二十四日の空襲から東京空襲は本格的になってきて、都民は行住座臥、常に空襲と共に生きる、言い換えれば死と背中合わせに生活することになった。

 ただ、十一月二十四日の時点ではまだ市井の人間には危機感はなかったという。
「また空襲の恐ろしさをほんとうに身にしみて感じていない街の人びとは、多勢表に飛び出して空を見上げ、もの珍しそうにB29を指さし、観兵式の飛行機の分列飛行でもみているような気持ちだった。警察官や警防団員が声をからして待避と叫んで歩いても、動こうともしないのだ。もしここへたとえ一発でも爆弾が落ちてきたとしたらどんなことになるか、想像しただけでもゾッと身ぶるいがする」…

 石川光陽によれば、この日、被害にあったのはまず神田地区、さらに日本橋方面。そして荷風が「砲声爆音一時沈静して再び起る」と記しているように、その後、いったんやみ、午前四時ごろになって、再び空襲になり、B29が侵入、偏奇館*に近い芝、麻布地区に爆弾、焼夷弾が落とされた。石川光陽に寄れば「その密度は極めて濃厚であった」。
 空襲が頻繁に夜、行われるようになったのは、それだけ米軍の攻撃能力が上がってきているからだろう。
 空襲が続くなか平常心を保ち、読書を続けているのは、驚く。一月十四日、「今年の冬ほど読書に興を得たること未だ曾てなし」。読書によって現実の厳しさをしばしでも忘れたかったのか。
 単身者の日々の暮らしは逼迫したものになってゆく。同じ十四日、「日曜日、晴又陰。無事」。まず「無事」とあるのが、空襲下の日々の困難を感じさせる。「炭もガスも思ふやうに使ふこと能はざれば板塀の古板蜜柑箱のこはれなどを燃して炭の代りとす。案外に時間を要するなり。朝十一時頃起出で飯をたきて食し終れば一時過なり。室内の塵を払ひ町の洗湯に行きかへり来たりて茶など喫すれば日はいつか傾きまた晩飯の仕度すべき頃とはなるなり」。
 日々の暮しに追われている。前年の十九年までは小説(『問はずがたり』)も執筆していたが、さすがに空襲の続く昭和二十年になると筆硯からは遠ざかる。楽しみは夜の読書で。「毎夜覚えず十二時過となるなり」。一月十八日には『ルーマニア文学史』なる本を読んでいる。時代から超然としている。」

偏奇館* 作家永井荷風が大正9年から昭和20年の空襲で焼けるまで25年間住んだ港区六本木にある家。

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posted by Fukutake at 10:01| 日記