2022年06月10日

大力女

「日本の昔話」 柳田国男 新潮文庫

大い子の握り飯 p152〜

 「昔近江の石橋の里には、大い子という大力の女があったそうです。ある旱(ひでり)の年に、村の人たちが意地が悪くて、溝を堰(せ)き留めて大い子の田には水を遣るまいとしました。大い子は黙っていて、夜中にそっと行って七尺四方もある大きな石を持って来て、溝のまん中に置いて流れないようにしてしまいました。村では朝起きて見てびっくりして、急いでその石を取り除けようとしましたが、中々僅かな人では動かすことも出来ません。大勢が集まって来て運ぼうとすれば、近所の田が皆荒らされてしまいます。そこで村の者は弱りきって、大い子の家へお詫びに来ました。これからは幾らでも、こちらの田へ水を入れるようにして、もう決して意地の悪いことはしませんから、どうかその大石を片付けて下さいと嘆願しました。それならばといって又夜の中に、そっとその大石を邪魔にならぬ所へ、持って行って置いたということで、それを大い子の水口石と呼んで、ずっと後までもこの村に残っていたそうです。

 それから又大い子に悪戯(いやずら)をして、大しくじりをした人の話もあります。ある時越前国から佐伯氏長という力士が、京に出ようとしてこの石橋の里を通りましたときに、若いきれいな娘が水の桶を頭に載せて、川から帰って来るのを見かけました。それが大力の大い子だということは夢にも知りませんから。後から近よって行って、桶をおさえている手を腋(わき)の下をくすぐろうとしました。そうすると娘は少し笑って、片手を桶から放して佐伯の手さきを、腋に挟んでしまいました。それが抜こうとしてもどうしても抜くことが出来ません。仕方がないのでとうとう大い子の家まで引っ張られて附いて行きました。それからやっとその手を離してくれて、全体あなたは何をする人かと尋ねますから、実は越前国の力士であるが、朝廷の晴れの相撲に召されて、こらから都に登るのだと申しますと、世の中は広い、まだどのような強い人が他の国から登って来るかも知れません。もう少し私の家にでもいて、修行をしてから行った方がよいでしょうということで、幸い相撲の期日までにまだ十分に日数がありますので、それから三週間、この大い子の家で練習を積むことにしました。
 大い子は毎日飯を強く炊いて、自分でむすびを握って越前の力士に食べさせました。始めの一週間はなんとしてもその握り飯を食い割ることが出来ませんでした。次の七日になるとやっとのことで、握り飯を食い割ることだけは出来るようになり、三週間目には初めてむしゃむしゃと自由に食べることが出来たそうであります。私の握ったむすびが、それくらい楽々と食べられるようになったら、もう大抵大丈夫でしょう。早く支度をしてお出かけなさいと言ってくれたので、佐伯氏長は大喜びで、京都の相撲の節(せ地)に出て行ったそうであります。」

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posted by Fukutake at 09:23| 日記

領土支配欲の果てに

「歴史の目撃者」 ジョン・ケアリー編 仙名紀訳 朝日新聞社 1997年

ナポレオンのモスクワ進攻 一八一二年九月十四日 クロード・フランソワ・メネヴァル男爵

(クトゥーゾフ将軍が率いるロシア軍は、ナポレオンの進攻に先立って焦土作戦を取り、モスクワを放棄した。ナポレオン軍は、なんの抵抗も受けずにモスクワに入った。だが、例年より早くて厳しい冬が到来したため、惨めな退却を余儀なくされる。)

「突如として眼前に現れた奇妙な大都市のようすは、強く心に残るものだ。ヨーロッパ的と言うよりむしろアジア的と言ったほうがいいだろう。見渡す限りの荒れ地が終わると、空にそびえ立つ千二百もの尖塔と、青い円蓋が目に入る。そこには、金の鎖でつなぎ合わされた金色の星形の飾りがちりばめられている。この遠征は、すでに大きな犠牲を払っている。だが、ナポレオンは、ここに至ってもなおロシアを平定する夢を捨てていなかった。…

 ナポレオンは九月十四日の夜を郊外のドロゴミロフで明かし、翌日になってモスクワに入った。大都市を陥落させるときにつきものの混乱は、まったくなかった。通りはひっそりと静まり返り、砲兵隊が運ぶ大砲と弾薬車だけが、がらがらと音を立てた。モスクワは、深い眠りに落ちているかのようだった。まるでアラビアの物語に出てくる、魔法にかけられた街だ。通りに面した家々の多くは立派な造りで、窓も戸もぴたりと閉ざされている。粗末な家々の間に、柱廊のある宮殿やヨーロッパとアジアの華美を尽くした教会、美しい建物が現れる。交易で栄えた大きな都市の富と繁栄、そして多数の富裕な特権階級が住んでいたことを物語っている。われわれが足を踏み入れることができた家の内部は立派にしつらえられ、豪華な家具を整えた家も多かった。持ち主が、永久に放棄したとはとても思えない。

 皇帝は、まっすぐクレムリンに向かった。街の中心の丘の上にそびえる、大きな城塞である。周囲をめぐる壁は砦のようで、大砲を備えた塔が一定間隔で並ぶ。クレムリンは、市内にあるもう一つの街だ。宮殿、兵器庫、議事堂、公文書館、そのほかの重要な公共の建物、多数の教会や寺院がある。宗教施設には、多くの歴史的な遺物、君主の戴冠に必要な品々、トルコからの奪取した戦利品や旗の数々が所蔵されている。…

 皇帝がクレムリンに入るとすぐ、キタイゴロド、またの名を、”中華街”と呼ばれる地区から火が出た。そこはポーチつきの家々に囲まれただだっ広い市場で、通りから下りていける大きな店々や、地下蔵のなかには、あらゆる種類の高価な品々、ショール、毛皮、インドと中国の薄手の織物などが積み上げられている。火を消そうとしても、無駄だった。この市場の火事が発端となって、町全体に広がり始めた。あちこちに火の手が上がり、三日のうちにモスクワの四分の三を焼き尽くした。残っている家々からも煙が上がって火が噴き出し、ついにはすべての家が火に包まれた。街全体が、まるで巨大なかまどのようだ。

 炎が天までめらめらと燃え上がり、地平線を真っ赤に染めている。あたりはひどい熱さだ。炎は折からの強風にあおられ、またたく間に四方に広がった。ひゅーという音が続けさまに聞こえ、壁が崩れ落ちる音、店や家々にある引火性のものが爆発する音などが轟く。略奪しようと侵入した家で炎に巻かれ、通りに逃げ出したものの、そこで力尽きてしまう哀れな人びとの悲鳴や叫び声が、悲惨さに輪をかける。通りは炎に包まれた迷路と化し、安全に脱出することは不可能だ。この信じられないほど恐ろしい光景を前にして、われわれはまったくなす術もなく、呆然自失の状態で言葉を失っていた。」
(Baron Claude Francois de Meneval, Memoirs to Serve for History of Napoleon T , 1894)

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常勝のナポレオンが一転没落への道をあゆむ契機となった、モスクワ遠征の失敗の光景。
posted by Fukutake at 09:18| 日記