2022年06月09日

私恨による仇討ち

「三田村鳶魚全集 第十九巻」中央公論社 昭和五十一年

忠臣蔵討入 p53〜

 「快挙とも義挙とも、はた壮挙ともいわれて、当代及び後世へ影響したことの大なる赤穂浪人の襲撃も、時間でいえば四時間を出でず、区域をいえば松坂町の一角に過ぎぬ。争闘の人数からいっても、双方で七八十人を越さない。現実した事態はきわめて鮮少なものである。藍川正恭(あいかわまさやす)の『譚海』に、「享保のはじめまでは俳諧師といふ者多からず、適々(たまたま)佳風などいふ人ありしかども、浪人にて刀をさし、俳諧をするといへども、学文などありて、毎日物よみ習いにくる人絶ず、其頃の名のある方々常に往来して、客人絶る事なかりし… 佳風の物語に地蔵といなりは時々はやるもの也、浅野家の士四十七人、吉良殿を夜討せし事、ケ様(かよう)のことは末の世に至ては、殊の外大そう成事に云ひつとふもの也」、成程無差別に大層に言い伝えた。

 現実した事態の分量を考えずに、彼によって受けた天下後世の風動を見て、何もかも大きい尽くしであったように心得るのは、当を得たものでない。大石良雄以下四十六人の心胸(はらのうち)はただ先君あるのみ、その遺言を継ぐのに急であった。世人も天下後世に偉大な感化を与えたのを見て、彼等が千秋万歳に懸けて教訓を残すために、松坂町襲撃を決行したものだとは思わぬ。幸いに誤解を脱がれている。

 この頃桜田門事件を持ち出して、忠臣蔵の向うを張るのが流行する。そして水戸藩士は、あらかじめ天下の大勢の変動を考えて、彦根藩直弼を殺害したといっている。水戸藩士十余人の一挙は、純粋なる忠義に醸成したもので、ひとえに斉昭卿の鬱懐を散ぜんがためにほかならぬ。井伊家を除けば形勢一変するのは知れたことだが、それは花弁飛んで果実成るので、勇んだ駒の分際は、花を散らせば足りている。

 近日の桜田事件論の筆法をもってすれば、大石良雄らも、後世の感化のために、義央を屠ったようになりそうである。磁石も北辰直下では効かないとやら、桜田事件は国家のために彦根侯を討ったということである。
 東禅寺の外人斬りも、尊王攘夷と一口にいった時世のことだけに、忠君愛国の事功と見做されて、靖国神社に合祀さえたのは、誤解ではなく錯会というのであろう。とても方角が違うなら、外人斬りの連中よりも、赤穂浪人を合祀したいように思われる。武士が武士道を、町人が町人道を正しく行って、天下後世に光耀するほどならば、国家はその功業を認めるのに猶予せずともよろしかろう。」

(初出『日本及日本人』明治四十四年九月一日号掲載)

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posted by Fukutake at 07:41| 日記

科学は人を幸せにするか

「聞かせてよ、ファインマンさん」 R.P.ファインマン 大貫昌子・江沢洋(訳) 岩波現代文庫 2009年

現代の科学的方法 p100〜

 「今日の世界で各国の指導者が選出される方法を考えると、科学的な人間はまさにゾッとせざるをえません。たとえば現在米国では二つの政党がそれぞれ渉外係、つまり広告屋を雇うことにしています。この連中は「製品」を開発するために、嘘だろうが事実だろうがおかまいなく言いふらすという、渉外係にぜひとも必要な訓練を受けた人間なのです。しかしそれはそもそも渉外係のもとの目的ではなく、ほんとうは実情を説明するのが仕事で、スローガンなどででっちあげるはずではありませんでした。ところが歴史を顧みれば一目瞭然、米国では多くの場合スローガンにもとづいて、政治的指導者を選んでいるのが事実です。(もういまごろは各政党がそのた銀行にそれぞれ何百万ドルもの口座を用意しているにちがいなく、さぞかし巧妙なスローガンが飛び出してくることでしょう。) しかしいまはその総まくりなどやってはいられません。

 科学を学びたいという気がないのなら、科学など勉強しなくても生きていけます。どだい科学は頭に負担がかかるものらしく、いっそ頭の痛くなりそうな科学なんぞ忘れても大事ないというのが一般的な考えかたですが、一体ぜんたい、なぜそういうことになってしまったのでしょう? なぜ科学なんぞ忘れてもかまわないのでしょうか? その理由は僕ら科学者が何もしようとしないからです。

 しかし僕らは自分の信じないことにたいしては、あえて反撃に出る必要があると僕は思います。反撃といっても人の頭をチョン切るようなやり方でなく、討論で反駁するのです。人々が自らの世界についてもっと一貫した理解を持つように努力することを、僕らは要求しなくてはなりません。頭のこっちの部分ではこれを信じ、あっちの部分ではあれを信じ、という案配に自分の頭を二分したり四分したりしていながら、それをひき比べて見ようともともしない怠惰を許さないようにすべきです。僕たち科学者は自分の頭のなかのさまざまな物の見方をまとめ、比較することを学んだからこそ、人間が何であるか、どんな位置にあるのかを理解するについて、少しは進歩できたのですから。科学がいつまでもわれ関せずのままなのは、科学者たちがだれかに何か質問されるか、ニュートンの力学もわかっていない人にアインシュタインの理論を説く講演を頼まれたりするまで、手をこまねいて待っているからです。また信仰療法とか占星術を反駁するために招かれることもなく、ましてや占星術にたいする科学的見解を論じてくれと頼まれることもないからです。

 ひょっとするとまちがっているかもしれませんが、僕の考えではみんなが遠慮しすぎているのだと思います。昔はこうした問題を論じあえる時代がありました。たとえば教会はガリレオの見解が教会を攻撃するものだと感じたものでしたが、現代の教会は科学が教会に反駁しているとは思ってもいないようです。とにかくだれもそんなことに心を煩わす者はなく、ましてや反駁しようとする者もありません。神学的見解と現代人それぞれのもつ科学的見解との矛盾、いやそれどころか同じ一人の科学者の宗教観と科学的信念とのあいだの矛盾すら、説明するための論文や記事を書く者はいないありさまです。」

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posted by Fukutake at 07:37| 日記