2022年06月02日

決心を実行しない自由?

「悪について」 エーリッヒ・フロム 鈴木重吉 訳 紀伊国屋書店

選択の自由 p174〜

 「或る人が直面した二つの行為の進路を選択する自由を論じるに当たり、まず具体的・日常的な実例をもって話をはじめよう。タバコを喫うかやめるかのひとつを選択する自由というような例をとろう。タバコを喫うことが健康に害を与えるかという報告を読んで、禁煙しようという結論に達した大のタバコ好きがいるとする。かれは「やめようと決心」をした。この「決心」は決定ではない。それは希望の公式化にすぎない。かれは禁煙を「決心した」が、翌日は実に気分が爽快だが、翌々日は気分がひじょうに悪く、三日目には「非社交的」と思われたくないと考え、その次の日にはタバコ白書の真偽を疑い、そしてやめる「決心」はしていたのに喫煙をつづけてしまう。この種の決定は思いつき、計画、幻想以外の何ものでもない、すなわち真の選択がなされるまでには、ほとんどあるいは全く真実であるとはいえない。タバコを自分の前に置き<この>タバコを喫うか喫わないかを決定しなければならないとき、この選択は真実になる。決定を必要とするのはいつも具体的な行為である。こういう状況でいつでも問題となるのは、その人が喫煙しない自由をもつかもたぬかである。

 ここでいくつかの問題が生じる喫煙に関する健康白書をその人が信じないか、たとえ信じたとしても、喫煙の娯しみを失うより二十年寿命が短くなってもよいと信じている場合もある。この場合、一見選択にかんする問題はないようにみえる。しかしそれは隠蔽されているにすぎない、かれの意識にのぼる考えは、たとえそれを試みても勝ち味はないという感じを合理化しているにすぎない。だから勝ち味のない闘いはやらないのだという口実を作るのである。しかし選択の問題は意識的であろうとなかろうと、そのもつ性質は同じである。それは理性の指示をうける行為と、非合理的な熱情にうごかされる行為のいずれかを選択するという問題である。スピノザによれば自由は「中庸な考え」に基づいている、そしてこの考えは自らを確知し、現実を受容することを基礎とし、それぞれの個人の心理的・精神的展開の十分な発達を保証する行為を決定づける。スピノザによれば、人間の行為は熱情または理性に動かされ、決定されるという。そして、熱情に支配されるときは、囚われの身となり、理性に支配されるときは自由なのである。…

 自己の意志に従って行動できないだろうと、ほぼ確実に予言しうるような人を想像してみよう。かれが母性像と激しく結合し、口唇受容期(吸う)のオリエンテーションを有し、常に他人から何かを期待し、自己主張ができないための強度の慢性不安に陥っていると想定すれば、喫煙は吸うことの自己欲求を満足させるためのものとなり、不安から身を守るものとなり、タバコはかれにとり、強さと大人であることと活動性の象徴となる。したがって以上の理由からかれはまさにタバコなしではすまされないのである。かれがタバコを渇望するのは、かれの不安、かれの受容性等の結果であり、その渇望はその動機と同じくらい強いのである。渇望があまり強くなると、何か激しい変革がかれの内なる力の均衡に起らなければ、その人間は自己の渇望を克服し得ないような場所がある。さもなければ、かれはあらゆる実際的目的のために、自分がよりよいと認めたことを選択する自由をもたない人だとだと言うことができる。」

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posted by Fukutake at 07:16| 日記

自分の死

「新型コロナウィルス蔓延下の在宅医療」 小堀鷗一郎
 學士會報 May 2021-V 掲載の講演録(抄)より

死を考えなくなった日本人 p72〜

 「コロナ禍が引き起こした問題のうち、家族を最も悩ませているのは、自宅療養中の高齢者や末期患者の容態が急変した時、どこへ電話したらいいか分からない、すぐに救急車が来てくれないというものです。
 私の勤務する病院にも、「発熱したのでかかりつけ医に往診をお願いしたが、診てもらえない。どうしたらいいか」という相談がたくさん寄せられます。その度私たちは、「新型コロナウィルス感染の有無にかかわらず、肺炎が疑われる高齢者は、入院して濃厚治療をして元通りのに回復することは難しい。患者の最後をどのような形で迎えるか、考えておいてください」と説明します。

 皮肉にもコロナのお陰で、患者の「死」について、事前に話せるようになりました。患者や家族は、九十五歳の親が歩けなくなっても、病院に搬送して治療してもらえば、元通りに元気になると当然のように考え、人間はいずれ老いて死ぬという認識が全く感じられない方がほとんどです。七十歳を超えた息子が九十五歳の親の死を全く考えていないのです。自身も七十歳を超えているのですから、死について考えていてもおかしくないはずですが、それも想像していないのです。

 実は多くの高齢者が、「自宅で死にたい」と望んでいるいます。…
「末期がんと診断され状態は悪化し、今は食事が取りにくく、呼吸は苦しいが痛みはなく、意識や判断力は健康な時と同様に保たれている、しかし回復の見込みはなく、およそ一年以内に徐々にあるいは急に死に至る時、どこで最後を迎えたいか」と尋ねたところ、一位が自宅(六十九.二%)、二位が医療機関(十八.八%)だったのです。

 私が診ていた九十代の女性患者も、病院を忌避していました。彼女は喫茶店を経営する娘夫婦と同居していました。コロナが流行する以前、高熱で近くの救急病院に搬送された時、初めて導尿をされ恥ずかしく感じ、「二度と病院には行かない」と決意しました。そこで私が定期的に訪問診察をしていたのですが、高齢のため、いつ亡くなってもおかしくない状態でした。私は娘夫婦に、「心置きなく喫茶店に働きに行きなさい。デイケア施設から容態急変の電話があったら、私に電話をください。適切に処置します」と説明し、思い描いた通り、自宅で旅立って行きました。

 とはいえ、死を忌避して来た日本人の特徴は、簡単には変わらないでしょう。大半の日本人は今も、「コロナで死ななければ、永遠に行きられる」と思い、死を極端に忌避し、コロナを過度に恐れています。
 後輩の若い大腸がんの専門医が言っていました。「大腸がんによる死者は一年間に約五万人だ。二〇二〇年十二月十日現在、国内にコロナによる死者は二千四百人を超えたが、大腸がんなら二〜三週間で達成してしまう数だ。命に関わる疾患はたくさんあるのに、何故コロナだけ、ここまで大騒ぎするのか?」と。」

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死を向こうへ追いやって、生きることは楽しくなったか?
posted by Fukutake at 07:10| 日記