「やぶから棒 ー夏彦の写真コラムー」 山本夏彦 新潮文庫 平成四年
頻(シキリ)ニ無辜(ムコ)ヲ殺傷シ(「終戦の詔書」より) p26〜
「八月六日の原爆を、私は見た。広島で見たのではない、写真で見た。写真は当時の『科学朝日』が広島にかけつけて写したものである。
アメリカ人は原爆の被害をかくそうと、草の根わけて写真を没収した。カメラマンは七年間ネガをかくして、没収をまぬがれた。
ようやくわが国が独立した昭和二十七年夏、『アサヒグラフ』は全紙面をあげてその写真を特集した。当時の編集長は飯沢匡(いいざわただす)である。
私が見たのはその特集号である。それはまざまざと実物を写した。酸鼻をきわめるという、筆舌を絶するという。それは写真でなければ到底伝えらないものである。私は妻子に見られるのを恐れて、押入れ深くかくして、あたりをうかがった。いま三十代半ばの友人のひとりは小学生のとき偶然これを見て、覚えず嘔吐(おうと)したという。
原爆許すまじという。何という空虚な題目だろう。「原水禁」「原水協」以下は、アメリカの原爆はいけないが中国のならいい、いやソ連のならいいと争って二十年になる。
原爆記念日を期して私はこの写真を千万億万枚複写して、世界中にばらまきたい。無数の航空機に満載して、いっせいに飛びたって同日同時刻、アメリカでヨーロッパでソ連で中国で、高く低く空からばらまきたい。
アメリカ人は争って拾うだろう、顔色をかえるだろう、子供たちは吐くだろう。ソ連と中国では拾ったものを罰しようとするだろう。罰しきれないほど、雨あられとばらまいてやる。
今わが国は黒字国だとアメリカ人に非難されている。これに要する費用は黒字べらしの一助にすると言えば、アメリカ人に否やはないだろう。このことを私は書くことでこれで三度目だが、ほとんど反響がない。これでも彼らがなお原爆の製造競争をやめないなら、それは承知でやめないのだから、それならそれで仕方がない。」
(週刊新潮 昭和五十四年八月九日号)
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歴史はくりかえす
大津波の記憶
「雪国の春 柳田國男が歩いた東北」 柳田國男 角川ソフィア文庫
明治三陸地震(一八九六年、明治二十九年六月十五日)の事
二十五箇年後 p123〜
「唐桑浜の宿という部落では、家の数が四十戸足らずのうち、ただの一戸だけ残って他はことごとくあの海嘯(つなみ)で潰れた。その残ったという家でも床の下に四尺あがり、時の間*にさっと引いて、浮くほどの物はすべて持って行ってしまった。その上に男の子を一人なくした。八つになるまことにおとなしい子だったそうである。道の傍に店を出している婆さんの所へ泊まりに行って、明日はどこかへお参りに行くのだから、戻るようにと迎えにやったが、おら詣りとうなござんすと言ってついに永遠に帰ってこなかった。
この話をした婦人はそのおり十四歳であった。高潮の力に押し回され、中の間の柱と蚕棚との間に挟まって、動かれなくているうちに水が引き去り、後ろの岡の上で父がしきりに名を呼ぶので、登って行ったそうである。その晩はそれから家の薪を三百束ほども焚いたという。海上からこの火の光を見かけて、泳いで帰った者もだいぶあった。母親が自分と同じ中の間に、乳飲児といっしょにいて助かったことを、その時はまるで知らなかったそうである。母はいかなることがあってもこの子は放すまいと思って、左の手でせいいっぱいに抱えていた。乳房を含ませていたために、潮水は少しも飲まなかったが山に上がって夜通し焚き火の傍にじっとしていたので、翌朝見ると赤子の顔から頭へかけて、煤の埃でゴマあえのようになっていたそうである。その赤子が歩兵に出て、今年はもう帰ってきている。よっぽど孝行してもらわにゃと、よく老母はいうそうである。
時刻はちょうど旧五月四日の、月がおはいりやったばかりだった。恐ろしい大雨ではあったが、それでも節句の晩なので、人の家に行って飲む者が多く、酔い倒れて帰らぬために助かったのもあれば、そのために助からなかった者もあった。総体に何を不幸の原因とも決めてしまうことも出来なかった。たとえば山の麓に押しつぶされていた家で、馬まで助かったのもある。二階に子供を寝かせておいて湯に入っていた母親が、風呂桶のまま海に流されて裸で命をまっとうし、三日目に屋根を破って入ってみると、その児が疵(きず)もなく生きていたというような珍しい話もある。死ぬまじくして死んだ例ももとより多かろうが、こちらはかえって親身の者のほかは、忘れらいくことが早いらしい。…
三陸一帯によくいう文明年間の大高潮*は、今ではもう完全なる伝説である。
明治二十九年の記念塔は村ごとにあるが、碑文の前に立つ人もない。今では村の人はただ専念に鰹節を削りまたスルメを干している。歴史にもやはりイカのなま干、または鰹のなまり節のような段階があるように感じられた。」
時の間* あっとい間
文明年間の大高潮* 文明7年8月6日(1475年9月15日)の暴風雨で大坂湾に高潮が発生、大被害が出た。
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歴史は繰り返す
明治三陸地震(一八九六年、明治二十九年六月十五日)の事
二十五箇年後 p123〜
「唐桑浜の宿という部落では、家の数が四十戸足らずのうち、ただの一戸だけ残って他はことごとくあの海嘯(つなみ)で潰れた。その残ったという家でも床の下に四尺あがり、時の間*にさっと引いて、浮くほどの物はすべて持って行ってしまった。その上に男の子を一人なくした。八つになるまことにおとなしい子だったそうである。道の傍に店を出している婆さんの所へ泊まりに行って、明日はどこかへお参りに行くのだから、戻るようにと迎えにやったが、おら詣りとうなござんすと言ってついに永遠に帰ってこなかった。
この話をした婦人はそのおり十四歳であった。高潮の力に押し回され、中の間の柱と蚕棚との間に挟まって、動かれなくているうちに水が引き去り、後ろの岡の上で父がしきりに名を呼ぶので、登って行ったそうである。その晩はそれから家の薪を三百束ほども焚いたという。海上からこの火の光を見かけて、泳いで帰った者もだいぶあった。母親が自分と同じ中の間に、乳飲児といっしょにいて助かったことを、その時はまるで知らなかったそうである。母はいかなることがあってもこの子は放すまいと思って、左の手でせいいっぱいに抱えていた。乳房を含ませていたために、潮水は少しも飲まなかったが山に上がって夜通し焚き火の傍にじっとしていたので、翌朝見ると赤子の顔から頭へかけて、煤の埃でゴマあえのようになっていたそうである。その赤子が歩兵に出て、今年はもう帰ってきている。よっぽど孝行してもらわにゃと、よく老母はいうそうである。
時刻はちょうど旧五月四日の、月がおはいりやったばかりだった。恐ろしい大雨ではあったが、それでも節句の晩なので、人の家に行って飲む者が多く、酔い倒れて帰らぬために助かったのもあれば、そのために助からなかった者もあった。総体に何を不幸の原因とも決めてしまうことも出来なかった。たとえば山の麓に押しつぶされていた家で、馬まで助かったのもある。二階に子供を寝かせておいて湯に入っていた母親が、風呂桶のまま海に流されて裸で命をまっとうし、三日目に屋根を破って入ってみると、その児が疵(きず)もなく生きていたというような珍しい話もある。死ぬまじくして死んだ例ももとより多かろうが、こちらはかえって親身の者のほかは、忘れらいくことが早いらしい。…
三陸一帯によくいう文明年間の大高潮*は、今ではもう完全なる伝説である。
明治二十九年の記念塔は村ごとにあるが、碑文の前に立つ人もない。今では村の人はただ専念に鰹節を削りまたスルメを干している。歴史にもやはりイカのなま干、または鰹のなまり節のような段階があるように感じられた。」
時の間* あっとい間
文明年間の大高潮* 文明7年8月6日(1475年9月15日)の暴風雨で大坂湾に高潮が発生、大被害が出た。
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歴史は繰り返す
posted by Fukutake at 07:16| 日記
2022年06月28日
説得力と正義とは別
「プラトン W ー 政治理論ー」田中美知太郎 著 岩波書店刊行
第三章 治国の理想
治国の技術的限界 p178〜
「われわれはここでもう一度プラトンが「正しい国制」と呼び、「これだけが唯一の国家あるいは国制である」としたものを取り上げて、そこにおける知識あるいは技術の法律への優越性というものを見てみなければならない。
『ちょうど船長が船と乗組員との利益をいつも注意深く守護しながら、文章を作成することによってではなく、むしろ技術を法となし、同船の乗客たちの安全を確保するのと同じその仕方で、統治(支配)する能力をもつ人たちがその技術の強い力をもろもろの法規よりも上に置くことによって、正当な国制がつくられるだろう。』(『国家』)
という言葉は、ただし国制あるいは国家体制が、治国の知たる統治の技術を原理的には法規の上にあるものとすることによってつくられるとする主旨のものであると解することができるだろう。これはさきにも見られた、国制が正しい体制であるか否かは、統治する人が真実に知識をもっているか否かによるのであって、法律に従って統治しているかどうか、被治者の同意を得ているかどうかというようなことは少しも問題にならないとする考えに通ずるものであるが、ここではそのうちの法律を一応問題にして、これとの関係において統治の知が優越していることが正しい国家体制を成立させる条件と見ているわけである。つまり見地がいくらか違っているわけであるが、むろん主意は同じだとしなければならないだろう。しかし法律と知識とはすぐにこれを上下の関係においたり、対立させたりすることができるものなのかどうか。両者は全く別の種類のものであって、これを対立や上下の関係に置くことはできないとも思われるだろう。プラトンの説明では、法律はすぐに文字に書かれたものとして語られるので、これだと『パイドロス』で見たような文字化への批判が思い出され、法律も文字に書かれたものとして、文字化されない知識そのものに対立させられるかも知れない。しかし文字にされない法律はいわゆる不文の法であって、対立は同じ法律について、それが文字化されているか否かというだけの対立であって、知識と法律の対立と同じだとは考えられなくなる。法律に書かれているのは知識ではなく、人びとがそう思ったこと(ドクサ*)にすぎないとも考えられる。議会で評決されたことがすなわちドクサとも呼ばれ、法律となるのである。しかしプラトンが本来の治者に期待しているのは、本当の技術、知識なのであって、ドクサではないのである。だから法律は成文化されていてもいなくても、それがドクサにすぎないものである限り、知識とはきびしく区別されなければならない。プラトンの治国の知と法律との区別は、このようにして法律をドクサに置き代えることによって一応の理解を得ることができるかも知れない。…
このようにしてわれわれは、治国の知の位置づけというようなものを、例えば弁論術とか用兵軍略の術あるいは司法の術などに対して、それがこれらの上に立って支配や指図や命令をする地位にあることを見たのであり、国制が正規正当なものであるか否かは、その統治や支配が完全にこの治国の知に即して行われているか否かによるものであり、これこそ正規正当の国制が正規正当であることの本質的条件をなすもの、正しい国制の心魂と知性とも言うべきものであって、いまこの正規正当の国制が他の地上の国制によって模写される原形として言わば一つのイデア的存在であるとするなら、この治国の知はちょうどこれに対応するイデア認識の知に匹敵するものと考えられたのである。」
ドクサ* 、思惑、思いなし等と訳され、「思い込み」という意味
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ワイドショーのドクサと現実の真の治国の策とは全く別。
第三章 治国の理想
治国の技術的限界 p178〜
「われわれはここでもう一度プラトンが「正しい国制」と呼び、「これだけが唯一の国家あるいは国制である」としたものを取り上げて、そこにおける知識あるいは技術の法律への優越性というものを見てみなければならない。
『ちょうど船長が船と乗組員との利益をいつも注意深く守護しながら、文章を作成することによってではなく、むしろ技術を法となし、同船の乗客たちの安全を確保するのと同じその仕方で、統治(支配)する能力をもつ人たちがその技術の強い力をもろもろの法規よりも上に置くことによって、正当な国制がつくられるだろう。』(『国家』)
という言葉は、ただし国制あるいは国家体制が、治国の知たる統治の技術を原理的には法規の上にあるものとすることによってつくられるとする主旨のものであると解することができるだろう。これはさきにも見られた、国制が正しい体制であるか否かは、統治する人が真実に知識をもっているか否かによるのであって、法律に従って統治しているかどうか、被治者の同意を得ているかどうかというようなことは少しも問題にならないとする考えに通ずるものであるが、ここではそのうちの法律を一応問題にして、これとの関係において統治の知が優越していることが正しい国家体制を成立させる条件と見ているわけである。つまり見地がいくらか違っているわけであるが、むろん主意は同じだとしなければならないだろう。しかし法律と知識とはすぐにこれを上下の関係においたり、対立させたりすることができるものなのかどうか。両者は全く別の種類のものであって、これを対立や上下の関係に置くことはできないとも思われるだろう。プラトンの説明では、法律はすぐに文字に書かれたものとして語られるので、これだと『パイドロス』で見たような文字化への批判が思い出され、法律も文字に書かれたものとして、文字化されない知識そのものに対立させられるかも知れない。しかし文字にされない法律はいわゆる不文の法であって、対立は同じ法律について、それが文字化されているか否かというだけの対立であって、知識と法律の対立と同じだとは考えられなくなる。法律に書かれているのは知識ではなく、人びとがそう思ったこと(ドクサ*)にすぎないとも考えられる。議会で評決されたことがすなわちドクサとも呼ばれ、法律となるのである。しかしプラトンが本来の治者に期待しているのは、本当の技術、知識なのであって、ドクサではないのである。だから法律は成文化されていてもいなくても、それがドクサにすぎないものである限り、知識とはきびしく区別されなければならない。プラトンの治国の知と法律との区別は、このようにして法律をドクサに置き代えることによって一応の理解を得ることができるかも知れない。…
このようにしてわれわれは、治国の知の位置づけというようなものを、例えば弁論術とか用兵軍略の術あるいは司法の術などに対して、それがこれらの上に立って支配や指図や命令をする地位にあることを見たのであり、国制が正規正当なものであるか否かは、その統治や支配が完全にこの治国の知に即して行われているか否かによるものであり、これこそ正規正当の国制が正規正当であることの本質的条件をなすもの、正しい国制の心魂と知性とも言うべきものであって、いまこの正規正当の国制が他の地上の国制によって模写される原形として言わば一つのイデア的存在であるとするなら、この治国の知はちょうどこれに対応するイデア認識の知に匹敵するものと考えられたのである。」
ドクサ* 、思惑、思いなし等と訳され、「思い込み」という意味
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ワイドショーのドクサと現実の真の治国の策とは全く別。
posted by Fukutake at 07:15| 日記