2022年05月20日

旅の宿の思い出

「宮本常一著作集 25」 村里を行く  未来社

土と共に p153〜

 「(無理に泊めてもらった宿の)おかみさんに案内せられて二階に上がる時、ヒョイと居間を見ると、一面に蒲団がしいてあって、子供がたくさん寝ている。私は何だか物なつかしいような侘しいような気がした。二階に上がると暗い電燈の下に蒲団が一重ねと火鉢が一つおいてあるだけ。いかにもガランとしていた。私はリュックサックを下ろして東京へハガキを書いた。とにかく寝る家ができたのでホッとした。泊めることを拒否はしたが、この家の者はきっといい人にちがいないような気がした。しばらくするとおかみさんが膳を持って上がって来た。気の毒だがこれで辛抱してくれと言って出す櫃を見れば麦飯である。米はほとんど交じっていない。たぶんはこの家の平生の食物であろう。麦飯は子供のとき食うて育って来たのでなつかしい。おかずは土地でとれた海苔である。これがまたじつにいい。とめようとしなかったわけも分かるような気がしたが、しかし、こうした食物を出された方が私にはありがたいのである。朝の汽車弁以来一四時間目なので、じつにうまかった。ひとり茶碗に盛って四杯もたべた。

 膳をひいてもらうと床をのべて横になった。薄い、そして足をのばせば足首から先が出るような敷蒲団と、紺の大柄の絣の蒲団一枚である。このあたりの人たちはこのような蒲団で海老のようにまるくなってねるのであろうか。われわれの故郷でも幼少の頃までは蒲団は小さかった。思う存分伸びてねると肩から上と足首は外に出たものである。人が大きくなったのではない、寝る姿勢が変わったのであろう。同時に蒲団も大きくなって来た。しかしここは未だ小さい蒲団がある。身体はいつまでたってもあたたまらないで、冷たさがシンシンと背中あたりにしみた。しかし、野宿するよりはよい。野宿した思い出は数回ある。旅での野宿は寒い時はみじめである。藁をかぶって田圃の中に寝た夜などは、朝までほとんど眠られなかった。ただ美しい星空の下に、自分がだんだん小さく細くなって、やがて消えて行くのではないかと思えた。冷たい空気が肺に入るたびに肺が冷えて行くように思えた。しかし古い旅人たちはこのようにして夜のやどりをすることが多かったはずである。
 沖泊*の丘の上から耳についていた潮騒の音がここまで来てもなおきこえる。火を消して目をつぶってきいているとまことに侘しい。
  とこしへになぐさもる人もあらなくに*枕に潮のをらぶ*夜は憂し

 私はふとこの歌を思い出した。長塚節が死ぬる少し前に日向の方へ旅した時の歌である。この歌人は私のもっともなつかしく思う一人である。出雲の国へも鰐淵寺の古鐘を見に来たことがあった。古鐘を深く愛し晩年死を宣言せられてから死に至る四年間はじつによくそういうものを求めて歩いている。そしてその生涯を博多の千代の松原の中の病院で終えた。常陸の田舎の農家に人となり、病にかかるまでも笠、茣蓙、草鞋のいでたちで日本各地を歩いた。そして『佐渡ヶ島』のようなよい紀行文を世に送っている。あの紀行文は今読んでみても新鮮で、今度旅に出る前の日にも声をたててしみじみと読んで来たのである。」
(昭和十四〜十五年)

沖泊* (おきとまり)島根県大田市温泉津町の日本海に面した集落。    あらなくに* ないことだなあ。   をらぶ* 大声で。
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posted by Fukutake at 08:18| 日記