2022年05月19日

英雄

「行動学入門」 三島由紀夫 文春文庫 

英雄の終わり p170〜

 「なぜ男には勲章が必要か。「女の勲章」などという小説の題名がユニークにきこえるだけ、それだけ勲章は男のものであった。なぜならむかしの金鵄勲章を代表として、英雄たりし男は、せめて勲章でももらわなければ、その後、他人はもちろん、自分も、かつて英雄であったといことを保証する材料がなく、その材料がなければ死んだも同然だからです。余談ですが、作品その他の形でちゃんと文化的業績ののこっている人に与える「文化勲章」というものは、本来の勲章からすると邪道にちがいない。何も形の残らないもののために、勲章と銅像の存在理由があるのです。なぜなら英雄とは、本来行動の人物だけにつけられる名称で、文化的英雄などというものは、言葉の誤用だからです。
 さて、今度の戦争で敗北した日本は、戦後、戦争の英雄というものを持つことができませんでしたが、日露戦争のあとなどは、もちろんそういう英雄がたくさんいた。東郷元帥はその最たるものでした。
 日露戦争のあと、東郷元帥はずっと生きていて、私が小学校のころに亡くなられましたが、元帥は生きているあいだ、ついに日本海海戦以上の大仕事はやらず、またやる機会もありませんでした。ある人物に英雄という名を与える行動は、たいてい五分間ぐらいで最終的に決定されます。その五分間、あるいは何秒間かが、彼の何十年という生涯を決定するわけです。元帥にとっても、日本海海戦のあとは、「余生」にすぎなかったでしょう。

 しかし、いい時代に亡くなられたので、この英雄のおわりは、実に堂々たる英雄のおわりでした。私の一生にも二度とあのような、壮麗をきわめた日没のような英雄のおわりを見ることはありますまい。元帥の国葬を拝するために、私たち小学生は、千鳥ヶ淵公園のところで、何時間も起立したまま列を作って粛然と待たされました。九段のほうから、国葬の行列がゆっくりと近づいてきました。外国武官たちの色どり花やかな軍装の一列が、片足を前に進め、両足をそろえ、また片足を前に出すという独特の歩き方で、視界にしずしずと入ってきたとき、かれらの兜の白い羽根毛は、一列のすばらしい熱帯の鳥が近づいて来るようでした。はてしれぬほど長い行列、しずかに引かれる柩… とうとう私は、行列をおしまいまで見ないうちに、脳貧血をおこして卒倒してしまいました。

 東郷元帥のような幸福な英雄は、まことにまれです。
 今の私なら、オデン屋の屋台に首をつっこんでオデンを食べても平気だし、パチンコ屋でパチンコに熱中していても平気です。しかしもし、私が何か英雄的行為をやらかして英雄になってしまったら、もう自分の英雄のイメージを破ることはできません。そして他の人のイメージを大切にする、という態度が、「英雄以後」の全部の人生態度になってしまうのです。それなら死んだほうがマシではないでしょうか?」

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posted by Fukutake at 09:46| 日記