「論語講義(一)」 渋沢栄一 講談社学術文庫
為政篇 第二 p106〜
「子貢君子を問う。子曰く、先ずその言を行い、而して後これに従う。
(子貢問君子。 子曰。先行其言而後従之。
子貢の問により、その性蔽(せいへい)の短処を警(いまし)む。蓋し子貢は孔子門中にありて言語を善くする能弁家なり。その病は、言勝って行いこれに及ばざることあり。ゆえに孔子、子貢が君子たるの道を問えるに対(こた)えていう、「民に長たるの君子は言語を重しとせず、重しとする所は道徳実行にあり、汝が平生言う所の説好からざるにあらず。しかれどもただ言うのみにては君子の道にあらず。ゆえにまず言わんと欲する所の説を実行し、しかして後にこれを言語に発すべし」と、深く子貢の病を戒められたり。子貢のみならず、よく言う者必ずしもよく行わず。これに反しよく行う者必ずしもよく言わず。前者はこれを口ほどでもなき男と称し、後者はこれを不言実行家と称す。
故大隈候のごときは雄弁家に相違なけれども、その言いたることをことごとく実行するにあらず。これに反して故山県候は口にて多く弁ぜざるも、いやしくも心に思うたことは必ず実行する人なりき。もしそれをよく言うて、よく行うは故木戸候や故伊藤候ならん。言行一致は実に難しきことなり。人はとかくあるいは口に偏しあるいは腕に偏し易きものなり。しかも今日の青年は口に偏するが多きようなり。口に訥にして行いに敏なる方がいくらかよいか知れぬ。自家広告の口舌に巧みにして、実行のこれに伴わぬ人ほど困ったものはない。口舌の人は世を益せず、自身もまた損するものである。諺にも詞(ことば)多きは品(しな)少なしといえり。青年諸君、請う心し給え。」
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詞多きは品少し。