2022年05月12日

心中

「岡本綺堂随筆集」千葉俊二編 岩波文庫 2007年

温泉雑記(六) p205〜

 「昔はめったになかったように聞いているが、温泉場に近年流行するのは心中沙汰である。とりわけて、東京近傍の温泉場は交通便利の関係から、ここに二人の死場所を択ぶのが多くなった。旅館の迷惑はいうに及ばず、警察もその取締りに苦心しているようであるが、容易にそれを予防し得ないらしい。
 心中もその宿を出て、近所の海岸から入水するか、山や森へ入り込んで劇薬自殺を企てるたぐいは、旅館に迷惑をあたえる程度も比較的に軽いが、自分たちの座敷を最後の舞台に使用されると、旅館は少なからぬ迷惑を蒙ることになる。
 地名も旅館の名もしばらく秘しておくが、わたしがかつてある温泉旅館に投宿した時、すこし書き物をするのであるから、なるべく静かな座敷を貸してくれというと、二階の奥まった座敷へ案内され、となりへは当分お客を入れないはずであるから、ここは確かに閑静であるという。なるほどそれは好都合であると喜んでいると、三、四日の後、町の挽き地物屋へ買物に立寄った時、偶然にあることを聞き出した。一月ほど以前、わたしの旅館には若い男女の劇薬心中があって、それは二階の何番の座敷であるということがわかった。

 その何番はわたしの隣室で、当分お客を入れないといったのも無理はない。そこは幽霊(?)に貸切りになっているらしい。宿へ帰ると、私はすぐ隣座敷をのぞきに行った。夏のことであるが、人のいない座敷の障子はしめてある。その障子をあけて窺ったが、別に眼につくような異状もなかった。
 その日もやがて夜となって、夏の温泉場も大抵寝静まった午後十二時頃になると、隣の座敷で女の軽い咳の声がきこえる。もちろん気のせいだとは思いながらも、私は起きてのぞきに行った。何事もないのを見さだめて帰って来ると、やがてまたその咳の声がきこえる。どうも気になるので、また行ってみた。三度目には座敷のまん中へ通って、暗い所にしばらく坐っていたが、やはり何事もなかった。

 わたしが隣座敷へ夜中に再三出入したことを、どうしてか宿の者に覚られたらしい。その翌日は座敷の畳換えをするという口実の下に、わたしはここを全く没交渉の下座敷へ移されてしまった。何か詰まらないことをいい触らされては困ると思ったのであろう。しかし女中たちは私にむかって何もいわなかった。私もいわなかった。

 これは私の若い時のことである。それから三、四年の後に、『金色夜叉』の塩原温泉の件(くだん)が『読売新聞』紙上に掲げられた。それを読みながら、私はかんがえた。私がもし一ヶ月以前にかの旅館に投宿して、間貫一と同じように、隣座敷の心中の相談をぬすみ聴いたとしたら、私はどんな処置をとったであろうか。貫一のように何千円の金を無造作に投げ出す力はないとすれば、所詮は宿の者に密告して、一先ず彼らの命をつなぐというような月並みの手段を取るほかはあるまい。貫一のような金持ちでなければ、ああいう立派な解決は附けられそうもない。
「金色夜叉」はやはり小説であると、わたしは思った。」

(昭和六年七月「朝日新聞」)

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posted by Fukutake at 07:56| 日記

どう転んでも

「宮崎市定全集 17」 中国文明 岩波書店 1993年

文化大革命の歴史的意義 p367〜

 「中国の社会、中国の文化というものは、ちょっとみると、昔からあまり変わっていないように見えますけれども、よく立ち入って見ますと、その間に非常な進歩が見られるわけであります。これは人文科学の面においてもそうですし、自然科学の面においても同様であります。中国には自然科学が発達しなかったというような説がありますが、決してそうではありません。きちんと発達を遂げて、そして近代的な生活にあまり支障がというところまで発達を遂げておるのであります。そこで中国の官僚制というものも、絶えず研究を重ね、経験の上から悪いところを改めてきたものであります。しかし一本道にぐんぐん良くなってきたのかといいますと、決してそういうことはないのでして、いったいある制度は何か悪いところを改めようとして新しい制度を作りますと、必ずその裏をかくものはまた出てくるのであります。そしてその弊害がかさんできますと、今度またそれを改めようとして新しい方法を考えます。またそれに対してその裏をかく戦術が考え出される。そういうふうにして絶えず変化発達してきておるわけでありますから、中国の官僚制を長い目で見ますと、ある面から言えば、改良の歴史であります。ところがある面から見ますと、またその裏をかいて堕落する歴史であります。堕落しながら改良し、改良しながら堕落する、堕落一本でもないし、改良一本でもなし、堕落しつつ改良されて、やっと二千年の年月を保ってきたわけでございます。

 それならば、どういう点に制度として中国官僚制の特徴があるかということを、二、三の方面から考えてみたいと思います。中国の官僚制のひとつの特色は官僚を監督する制度が発達しておることであります。これを監察制と申しますが、どこの社会でも悪いところを取り締まる法律は必ずあります。ところがこの法律あるいは制度というものは、とかく権力のある人には弱く、そして弱い人に対してはきびしい。そういう傾向が、これは世界的だと思いますが、現在の日本なんかでも、いちばん悪いことの出来る地位は国会議員さんでしょう。これは制度の上でそうではないんですが、自然まあこうなるといいますか、あるいは議員さんのこしらえる法律だからそういうふうになったのかどうか知りませんけれども、とにかく議員さんがいちばん悪いことが出来るようである。あるいは位の高いお役人、この方がわれわれ庶民よりは悪いことが出来るようになっております。何百万円というお金をもらっても、もらい方によっては罪にならない。自分がもらうと賄賂になるけれども、秘書さんが受け取ると賄賂にならない。なんでもそういうもらい方があるようでして、それで非常に不公平であるといいますか、われわれ庶民からみると不平どころでは済まされない問題であるように思われます。」

(第十二回長野県地町村教育委員会大会での特別講演、一九六八年九月)

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役人の賄賂
posted by Fukutake at 07:50| 日記