2022年05月03日

真宗門徒集団

「日本近世の起源ー戦国乱世から徳川の平和へー」 渡辺京二 洋泉社 2011年

 一向一揆の虚実 p246〜

 「加賀一国が実質的に本願寺領となったには蓮如が満七十三歳のときだった。彼の宗教理念はこのような本願寺領の実現を望むものではけっしてなかったし、門徒がそのような方向で一揆をすることを認めるものでもなかった。だが一方で彼は王法を超越する信仰の共同体、すなわち仏法領をつくりあげたいと強く願い、そのために政治的実力をもつ外護者を必要とした。政治的実力者の保護を受けるには、教団自体に保護に値する力量がそなわらねばならない。加賀一国の獲得は、まさに本願寺が有力な政治・軍事勢力と同盟しうる条件をつくり出すものである。おそらく蓮如は痛し痒しであったにちがいない。加賀を如来からの賜りものとするのは仏法領概念の重大な修正であり、その裏には彼のてれかくしの苦笑がひそんでいたのではなかったか。

 こののち、蓮如と管領細川政元との同盟が成り立つ。将軍義尚は寵臣富樫政親を殺され激怒したが、政元のとりなしでことなきをえた。政元は聖徳太子の化身、観音と八幡の申し子とされ、本願寺から下にもおかぬ扱いを受けることになる。もちろん政元はもとをとった。永正二(一五〇五)年、畠山氏との対立で窮地に立った政元は、第九世宗主実如(蓮如第五子・一四五八〜一五二五)に援軍を依頼し、実如は加賀から千人の番衆を動員して責を果たした。このとき実如は、摂津・河内の坊主衆・門徒衆に出陣を命じたのだが、彼らは「もとより開山上人以来左様の事、当宗になき御事に候」として拒否した。これは朝尾直弘がいうように「門徒衆が『武家』の権力闘争にまきこまれるのを拒否しようとし」たものではけっしてない。摂津・河内の坊主・門徒は政元の敵手である畠山氏と結んでいたのである。彼らは畠山氏と姻戚関係のある実如の弟を宗主に擁立しようとして一揆を結びさえした。永正一揆は実如が政元に加担して反政元派の守護勢力と戦ったもので、彼の指令によって戦雲は北陸・東海・近畿に及んだ。

 実如の弟実悟はのちになって永正一揆をふりかえり、「そのみぎり以来、当家御門邸の坊主衆以下、具足かけ始めたることにて候」と語っている。むろん本願寺派の坊主は文明年間から、すでに「具足懸け」を行っていた。しかし、宗主の指令によって坊主・門徒が戦争行為を行うようになったのは、永正以来だと実悟は言うのである。井上鋭夫は、実如が政元援助に踏み切ったのは、北陸で「教団と守護勢力との対抗関係が、もはやぬきさしならぬものになっていた」ためと言う。本願寺はいまやたんなる教団ではなく、一定地域の政治経済支配権をもち、それ自身の軍勢を有する一個の権門であった。その権門の地位を守るため、こののち宗主と本山は戦国大名とのめまぐるしい連合と抗争を繰り返すことになる。これは百姓の一揆どころか、宗教一揆でさえもなかった。」

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政治勢力としての一向宗
posted by Fukutake at 14:56| 日記

幽体離脱

「現代の民話 ーあなたも語り手、私も語り手ー」松谷みよ子 中公文庫 2000年

 魂抜け p95〜

 「和歌山県出身の著名な民俗学者南方熊楠の、明治四十四年(一九一一)八月「人類学雑誌」第二十七号に掲載された「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」という論文の一部を紹介しよう。

    「七年前厳冬に、予那智山に孤居し、空腹で臥たるに、終夜自分の頭抜け出て、家の横側なる牛部屋の辺を飛び廻り、有り有りと闇夜中に其状況を詳しく視る。自ら其精神変態に在るを知ると言えども、繰返し斯の如くなるを禁じ得ざりし。」

 と記し、世にかかる例少なからぬを知り、蒙昧の民が眠っている間に魂が抜け出ると信じているのはもっともなことで、魂が人形を現わして抜け出るのみならず、蜥蜴(とかげ)や蟋蟀(こおろぎ)、鴉(からす)、鼠となって眠っている身を離れ、遊ぶという迷信が諸方の民間にあると述べている。だから急に寝ている人を起こしたりすれば、魂は帰り道を誤り病み出す。ボンベイでは眠っている人の顔を彩り、眠っている女に髭を書けば殺人罪に匹敵するのだという。

 「二十年前、予広東人の家に宿せし時、彼等の眠れる顔を描きて鬼形にし、又、其の頬と額に男根を書きなどせしに、孰れも起きて後ち、鏡に照して大いに怒れり。其訳を問ひしに、魂帰り来るも、自分の顔を認めず、他人と思って去る虞(おそれ)有る故との事なりし。

 この、睡眠中に抜け出した魂が帰る身体を間違えた例は『紀伊続風土記』巻八五にあり、今も不思議な伝承として最近の本などにも載っている。これを柳田国男が「史料としての伝説」(大正十四年五月、「史学」四巻二号)のなかで記している。

   「紀伊国続風土記」の東牟婁(ひがしむろ)郡請川(うけがわ)村野竹の条には、興味ある話を載せて居る。元文年間の事であると謂ふ。この村の弥七郎と云ふ七十ばかりの親爺、病気に罹り突然悶絶したので、家内の者びっくりしてこれを喚び活かすと、正気は附いたがが言語態度がまるでかはつて、女房子の顔も見知らず、言語は熊野の人でなく、木地引きの言語と為って居た。木地引きの者には、近江国の詞が多く、誰が聴いてもすぐに分かるのである。これは其頃同じ村の山奥に、同じく弥七郎といふ木地屋が住んで居て、近頃死んだばかりで魂がまだ消えずにあつたのが、我名を声声に喚ばれるので、戻つて来て別の弥七郎の体内に入れはかつたのであろうと云ふことであつた。さうして尚十年ばかり生きて居たと言ふ話。」

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posted by Fukutake at 14:51| 日記