2022年05月01日

お種頂戴

「日本の宿」(旅の民俗と歴史1) 宮本常一編著 八坂書房 

旅する人びと p29〜

 「長者といわれるような者は貴人の遊行があれば、その娘を応待のためにそばにはべらせたのであるが、そうした女のいない時は遊女をはべらせることもあり、また自分の妻をして接待させることもあった。
 さらに時代は下るが、応永二十七年(一四二〇)日本を訪れた朝鮮の使者老松堂の「日本行録」に、「毎年ある月のある日将軍が家来の家へゆく。するとその家では主人が妻を従えて迎えに出る。将軍は管領やその他の武人をしたがえてやって来る。主婦は将軍を迎えて家の中にみちびき、御馳走を出してもてなす。その間、夫である主人は室の外にあって将軍の家来たちをもてなす。一方室の中でご馳走になっている将軍が酒がまわって酔って来ると、主婦は将軍を湯殿に案内する。そして将軍の垢をおとす。これはずっと昔から日本に伝えられている貴族のもてなしの方法である」という興味ある一節がある。もとよりその間将軍と家来の妻とは肉体関係にも通じ合うわけで、もし妊娠すれば殿中に入って子を生み、主人の方は別に改めて妻を迎えるのである。そのような実例があったことをも合わせてしるしている。当時の将軍は足利義持であった。

 この場合には家来の妻は将軍の妻として殿中に入るのであるが、入らない場合もまた少なくなかったであろう。青墓の長者の娘の場合もそれであった。
 都の貴族にとって旅は楽しかったのはこうしたことも原因していたであろう。と同時に、地方の豪族たちは、そうしたことによって中央への何らかの血のつながりを持つこともできたのである。貴族にかぎらず、庶民の間にもそうのような習俗は見られた。

 明治の終わり頃まで僻地をあるいておればそうした事実に出逢ったものであるという。若い娘に旅人の接待をさせ、夜にはその枕頭にはべらせた。それを「お種頂戴」などと言っていたものであった。私よりも早く全国を民俗調査のために旅行した先輩の一人からきいた話だが、大正の終わり頃、三河(愛知)の山中で、日暮に宿屋のないところで宿をたのむと、部落総代のところへ行けという。部落総代の家へいくと、「しばらく待って呉れ」と言って外へ出ていった。その人は仕方なしに外でまっていると、総代は若い娘を一人つれて来た。さてそれから娘はかいがいしく男の世話をいてくれる。夕はんをつくり風呂をわかし、風呂にはいると背中も流してくれた。夕飯のとき事情をきいて見ると、この家の娘ではなく、近所の家の娘であるという。そして、村へ大事な客のやって来たときには若い娘が、このように接待のために引き出されるのだという。さて夕飯もすみ、床ものべてくれた。娘の方は隣の部屋に床をのべ、
「もう用事はございませんでしょうか」ときき、
「何もない」と答えると
「おやすみなさい」
と言って、部屋と部屋との間の唐紙を五寸ばかりあけて、自分の床へはいった。男の方も床に入った。男の床から女の背が見える。キチンと閉めてくれればいいのにと思いながらも、閉めることがかえって娘を傷つけることになりはしないかと思って、そのままにしたが、どうにも心がおちつかなかった。

 昭和になって旅をはじめた私にはそのような経験はない。だから大正時代にはそうしたもてなしは止んでしまったことであろう。」

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posted by Fukutake at 07:22| 日記

倭寇の実態

「日出づる国と日暮るる処」 宮崎市定 中公文庫

倭寇 p38〜

 「室町時代、シナ海沿岸の大陸を擾乱した日本人の団体が中国人から倭寇の名をもって呼ばれたのは有名な事実であるが、倭寇に関する研究は日本に数多く発表されているにも拘らず、何れも一致して、これを海賊団と見做す見解から一歩も出ないのは何故か。現今大東亜戦争で重慶側は倭寇の名を担ぎ出して抗日思想を鼓吹に供している由、その実、いわゆる倭寇は決してそんな物取りの強盗を目的としたものではなかった。

明の海禁
 明の太祖は元末大乱の際に崛起し、群雄を平らげて帝位に即(つ)いたのであるが、かつて彼の敵手であった中には江蘇の方国珍などがあり、天下統一の後もその余波が海島に逃匿して沿岸地方を擾したので、洪武四年(一三七一)以来、いわゆる片板も海に下るを許さずいわゆる海禁令を強化して、徹底的に海辺を粛清すると共に、海外貿易の権を朝廷の手に収め、厳重な貿易統制をもって諸外国に臨んだのであった。

 太祖及びその子成祖の海禁令においては、先ず沿岸海島の民を悉く内地に移住せしめ、その地を空にした跡へ軍隊を駐屯せしめて、衛、所を設立して海寇に備え、人民は沿岸航行用の一本檣(しょう・ほばしら)、平底の小船を使用するを許されるが、それより大きな二本檣以上、竜骨を据えた尖底の大船を建造することを許されない等の規定がある。

 諸外国は苟(いやしく)も中国と通商せんとすれば、自らの船をもって中国に到着するを要し、しかも必ず明の朝貢国として封冊を受けたる国王の臣下にして、該国王の印璽を捺したる国書を持参せねばならなかった。即ち彼等は属国より宗主国たる明へ朝貢使たる資格においてのみ明の海港に到着し得、同時に貿易を許されるのであった。しかも、かかる朝貢貿易は、その度数、船数、人数においても著しく制限を受け、日本に対しては最初は十年一貢、船二艘、人数二百に限るという規定である。

 明の始め、かかる朝貢貿易を取扱うために役所として、市舶司なるものを太倉の黄渡に設けたが、その余りに国都南京に近きの故をもって、やがてこれを浙江の寧波、福建の泉州、広東の広州の三ヶ所に移転分置した。寧波の市舶司は専ら日本の貿易に対処するため、泉州の琉球に対し、広州のは南洋諸国の貿易に対してである。

 果たして然らば、明朝廷は完全に外国貿易を政府統制の下に置き得たかというに決してそうでない。朝貢貿易の度数を何年に一度と限り、船何艘、人何名と制限しても当時すでに国際貿易が日毎に盛況に赴きつつある際、かくのごとき抑圧策は、外国に取りて窮屈になると共に明の人民にとりても迷惑この上もない。

 大明律を見ると、私かに物資を持ちて海上に出でて交易する者は罪杖一百、軍器人口等の禁物をもって海上に出づるものは死罪絞、その際もし国情を洩すものは死罪斬に処すとあり、問刑条例には二本檣以上の対戦を造り、禁物をもって下海し外国に至りて密貿易をなし、或いは海賊結衆し、或いは嚮導をなして劫掠する者は極刑に処すと見えている。

 然るにかくも厳重に定められた規定は、到底その儘に実行されるべくもなく、海岸の人民は次第に二本檣以上の大船を造って海外に乗り出し、外国人と密貿易を行うのみか、更に進んで日本や南洋諸国に到達するようになった。一方武備もようやく頽廃して、海島の衛所は交通巡邏の不便から次第に内地の海岸に内地の海岸に引上げる、その後へ中国人と外国人共同の密貿易基地が出来上がっていたのである。」昭和十八年(星野書店刊)

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posted by Fukutake at 07:17| 日記