「宮本常一著作集 25」 村里を行く 未来社
土と共に p153〜
「(無理に泊めてもらった宿の)おかみさんに案内せられて二階に上がる時、ヒョイと居間を見ると、一面に蒲団がしいてあって、子供がたくさん寝ている。私は何だか物なつかしいような侘しいような気がした。二階に上がると暗い電燈の下に蒲団が一重ねと火鉢が一つおいてあるだけ。いかにもガランとしていた。私はリュックサックを下ろして東京へハガキを書いた。とにかく寝る家ができたのでホッとした。泊めることを拒否はしたが、この家の者はきっといい人にちがいないような気がした。しばらくするとおかみさんが膳を持って上がって来た。気の毒だがこれで辛抱してくれと言って出す櫃を見れば麦飯である。米はほとんど交じっていない。たぶんはこの家の平生の食物であろう。麦飯は子供のとき食うて育って来たのでなつかしい。おかずは土地でとれた海苔である。これがまたじつにいい。とめようとしなかったわけも分かるような気がしたが、しかし、こうした食物を出された方が私にはありがたいのである。朝の汽車弁以来一四時間目なので、じつにうまかった。ひとり茶碗に盛って四杯もたべた。
膳をひいてもらうと床をのべて横になった。薄い、そして足をのばせば足首から先が出るような敷蒲団と、紺の大柄の絣の蒲団一枚である。このあたりの人たちはこのような蒲団で海老のようにまるくなってねるのであろうか。われわれの故郷でも幼少の頃までは蒲団は小さかった。思う存分伸びてねると肩から上と足首は外に出たものである。人が大きくなったのではない、寝る姿勢が変わったのであろう。同時に蒲団も大きくなって来た。しかしここは未だ小さい蒲団がある。身体はいつまでたってもあたたまらないで、冷たさがシンシンと背中あたりにしみた。しかし、野宿するよりはよい。野宿した思い出は数回ある。旅での野宿は寒い時はみじめである。藁をかぶって田圃の中に寝た夜などは、朝までほとんど眠られなかった。ただ美しい星空の下に、自分がだんだん小さく細くなって、やがて消えて行くのではないかと思えた。冷たい空気が肺に入るたびに肺が冷えて行くように思えた。しかし古い旅人たちはこのようにして夜のやどりをすることが多かったはずである。
沖泊*の丘の上から耳についていた潮騒の音がここまで来てもなおきこえる。火を消して目をつぶってきいているとまことに侘しい。
とこしへになぐさもる人もあらなくに*枕に潮のをらぶ*夜は憂し
私はふとこの歌を思い出した。長塚節が死ぬる少し前に日向の方へ旅した時の歌である。この歌人は私のもっともなつかしく思う一人である。出雲の国へも鰐淵寺の古鐘を見に来たことがあった。古鐘を深く愛し晩年死を宣言せられてから死に至る四年間はじつによくそういうものを求めて歩いている。そしてその生涯を博多の千代の松原の中の病院で終えた。常陸の田舎の農家に人となり、病にかかるまでも笠、茣蓙、草鞋のいでたちで日本各地を歩いた。そして『佐渡ヶ島』のようなよい紀行文を世に送っている。あの紀行文は今読んでみても新鮮で、今度旅に出る前の日にも声をたててしみじみと読んで来たのである。」
(昭和十四〜十五年)
沖泊* (おきとまり)島根県大田市温泉津町の日本海に面した集落。 あらなくに* ないことだなあ。 をらぶ* 大声で。
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2022年05月19日
英雄
「行動学入門」 三島由紀夫 文春文庫
英雄の終わり p170〜
「なぜ男には勲章が必要か。「女の勲章」などという小説の題名がユニークにきこえるだけ、それだけ勲章は男のものであった。なぜならむかしの金鵄勲章を代表として、英雄たりし男は、せめて勲章でももらわなければ、その後、他人はもちろん、自分も、かつて英雄であったといことを保証する材料がなく、その材料がなければ死んだも同然だからです。余談ですが、作品その他の形でちゃんと文化的業績ののこっている人に与える「文化勲章」というものは、本来の勲章からすると邪道にちがいない。何も形の残らないもののために、勲章と銅像の存在理由があるのです。なぜなら英雄とは、本来行動の人物だけにつけられる名称で、文化的英雄などというものは、言葉の誤用だからです。
さて、今度の戦争で敗北した日本は、戦後、戦争の英雄というものを持つことができませんでしたが、日露戦争のあとなどは、もちろんそういう英雄がたくさんいた。東郷元帥はその最たるものでした。
日露戦争のあと、東郷元帥はずっと生きていて、私が小学校のころに亡くなられましたが、元帥は生きているあいだ、ついに日本海海戦以上の大仕事はやらず、またやる機会もありませんでした。ある人物に英雄という名を与える行動は、たいてい五分間ぐらいで最終的に決定されます。その五分間、あるいは何秒間かが、彼の何十年という生涯を決定するわけです。元帥にとっても、日本海海戦のあとは、「余生」にすぎなかったでしょう。
しかし、いい時代に亡くなられたので、この英雄のおわりは、実に堂々たる英雄のおわりでした。私の一生にも二度とあのような、壮麗をきわめた日没のような英雄のおわりを見ることはありますまい。元帥の国葬を拝するために、私たち小学生は、千鳥ヶ淵公園のところで、何時間も起立したまま列を作って粛然と待たされました。九段のほうから、国葬の行列がゆっくりと近づいてきました。外国武官たちの色どり花やかな軍装の一列が、片足を前に進め、両足をそろえ、また片足を前に出すという独特の歩き方で、視界にしずしずと入ってきたとき、かれらの兜の白い羽根毛は、一列のすばらしい熱帯の鳥が近づいて来るようでした。はてしれぬほど長い行列、しずかに引かれる柩… とうとう私は、行列をおしまいまで見ないうちに、脳貧血をおこして卒倒してしまいました。
東郷元帥のような幸福な英雄は、まことにまれです。
今の私なら、オデン屋の屋台に首をつっこんでオデンを食べても平気だし、パチンコ屋でパチンコに熱中していても平気です。しかしもし、私が何か英雄的行為をやらかして英雄になってしまったら、もう自分の英雄のイメージを破ることはできません。そして他の人のイメージを大切にする、という態度が、「英雄以後」の全部の人生態度になってしまうのです。それなら死んだほうがマシではないでしょうか?」
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英雄の終わり p170〜
「なぜ男には勲章が必要か。「女の勲章」などという小説の題名がユニークにきこえるだけ、それだけ勲章は男のものであった。なぜならむかしの金鵄勲章を代表として、英雄たりし男は、せめて勲章でももらわなければ、その後、他人はもちろん、自分も、かつて英雄であったといことを保証する材料がなく、その材料がなければ死んだも同然だからです。余談ですが、作品その他の形でちゃんと文化的業績ののこっている人に与える「文化勲章」というものは、本来の勲章からすると邪道にちがいない。何も形の残らないもののために、勲章と銅像の存在理由があるのです。なぜなら英雄とは、本来行動の人物だけにつけられる名称で、文化的英雄などというものは、言葉の誤用だからです。
さて、今度の戦争で敗北した日本は、戦後、戦争の英雄というものを持つことができませんでしたが、日露戦争のあとなどは、もちろんそういう英雄がたくさんいた。東郷元帥はその最たるものでした。
日露戦争のあと、東郷元帥はずっと生きていて、私が小学校のころに亡くなられましたが、元帥は生きているあいだ、ついに日本海海戦以上の大仕事はやらず、またやる機会もありませんでした。ある人物に英雄という名を与える行動は、たいてい五分間ぐらいで最終的に決定されます。その五分間、あるいは何秒間かが、彼の何十年という生涯を決定するわけです。元帥にとっても、日本海海戦のあとは、「余生」にすぎなかったでしょう。
しかし、いい時代に亡くなられたので、この英雄のおわりは、実に堂々たる英雄のおわりでした。私の一生にも二度とあのような、壮麗をきわめた日没のような英雄のおわりを見ることはありますまい。元帥の国葬を拝するために、私たち小学生は、千鳥ヶ淵公園のところで、何時間も起立したまま列を作って粛然と待たされました。九段のほうから、国葬の行列がゆっくりと近づいてきました。外国武官たちの色どり花やかな軍装の一列が、片足を前に進め、両足をそろえ、また片足を前に出すという独特の歩き方で、視界にしずしずと入ってきたとき、かれらの兜の白い羽根毛は、一列のすばらしい熱帯の鳥が近づいて来るようでした。はてしれぬほど長い行列、しずかに引かれる柩… とうとう私は、行列をおしまいまで見ないうちに、脳貧血をおこして卒倒してしまいました。
東郷元帥のような幸福な英雄は、まことにまれです。
今の私なら、オデン屋の屋台に首をつっこんでオデンを食べても平気だし、パチンコ屋でパチンコに熱中していても平気です。しかしもし、私が何か英雄的行為をやらかして英雄になってしまったら、もう自分の英雄のイメージを破ることはできません。そして他の人のイメージを大切にする、という態度が、「英雄以後」の全部の人生態度になってしまうのです。それなら死んだほうがマシではないでしょうか?」
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posted by Fukutake at 09:46| 日記
2022年05月18日
アヘン戦争の起源
「宮ア市定全集 18 ーアジア史ー」 岩波書房 1993年
アヘン戦争と南京条約 p319〜
「広東を中心とする中国の紡績工業は、手工業的なものにすぎなかったので、イギリスのランカシャー機業が発達するとたちまちこれに圧倒されてしまった。これとともに、イギリス東インド会社が対中国貿易品として新しく輸出をはじめたアヘンは、中国人の嗜好にあって急激に需要が増大した。アヘンは健康に害があるので、嘉慶年間に中国政府はしばしば禁令を出してアヘン販売を禁止したが、沿岸の人民はイギリス商人と密貿易を行い、これを内地に転売するための秘密結社が勢力をのばし、政府はさらにこれを取り締まるために苦心を払わなければならなかった。やがてアヘンの盛行は従来の貿易関係を逆転させ、銀塊は年々多量にアヘン購入のために流失し、中国内部には深刻な不況がおとずれ、多数の失業者を出し、このことはますます密貿易者の活躍を促す結果を招いた。
道光年間、政府はふたたびアヘンの禁令を厳重にしたが、中国人民を取り締るだけでは実効をあげにくいことを悟り、広東に渡来する外国人にも禁令を及ぼそうとした。ここに林則徐の強硬手段によりアヘン商人弾圧となったが、その結果、不幸にしてイギリスとの戦争に発展し、清朝は破れて和を請わなければならなくなった。
これまで清朝は中国だけでなく、全世界の皇帝であると自任し、中国の外国貿易は、物資が貧弱でひとりだちできない夷狄朝貢貿易にたいする恩恵であると自負していた。ところがこの政策を実施するにあたって、乾隆帝の時には優になしえたことであっても、道光帝の時にはすでにとうていできなくなっていた世界の変化を清朝は知らなかった。そしてこの変化は、清朝側における実力衰微のためばかりでなく、この間にヨーロッパには産業革命と政治革命があいついで行われ、ヨーロッパの威力は百年前と比較にならないほど強化されていたことから来ているのであった。蒸気機関によって航行するイギリス軍艦はたやすく中国沿岸に集結され、その大砲は中国の砲台を沈黙させ、イギリス艦隊は揚子江を遮断して、中国南部より中国北部へ送る穀物輸送の途を断つことができた。半身不随となった清朝は、イギリスの提出する条件を鵜呑みにして南京条約に調印しなければならなかったのである(一八四二年)。
南京条約は香港をイギリスに割譲することを約したが、ここにおいて広東湾外には、西方のマカオにたいして当方に香港が自由港として開かれ、イギリスの努力・経営によって、しだいにマカオの繁栄を奪い、イギリスの商権を極東に推進する根拠地になった。日本がアメリカ使節ペリーにたいして通商協約を締結して開国したのは、これより十二年の後であり、アヘン戦争の結果を考慮するところがあってのことであった。」
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西洋の逆襲始まる
アヘン戦争と南京条約 p319〜
「広東を中心とする中国の紡績工業は、手工業的なものにすぎなかったので、イギリスのランカシャー機業が発達するとたちまちこれに圧倒されてしまった。これとともに、イギリス東インド会社が対中国貿易品として新しく輸出をはじめたアヘンは、中国人の嗜好にあって急激に需要が増大した。アヘンは健康に害があるので、嘉慶年間に中国政府はしばしば禁令を出してアヘン販売を禁止したが、沿岸の人民はイギリス商人と密貿易を行い、これを内地に転売するための秘密結社が勢力をのばし、政府はさらにこれを取り締まるために苦心を払わなければならなかった。やがてアヘンの盛行は従来の貿易関係を逆転させ、銀塊は年々多量にアヘン購入のために流失し、中国内部には深刻な不況がおとずれ、多数の失業者を出し、このことはますます密貿易者の活躍を促す結果を招いた。
道光年間、政府はふたたびアヘンの禁令を厳重にしたが、中国人民を取り締るだけでは実効をあげにくいことを悟り、広東に渡来する外国人にも禁令を及ぼそうとした。ここに林則徐の強硬手段によりアヘン商人弾圧となったが、その結果、不幸にしてイギリスとの戦争に発展し、清朝は破れて和を請わなければならなくなった。
これまで清朝は中国だけでなく、全世界の皇帝であると自任し、中国の外国貿易は、物資が貧弱でひとりだちできない夷狄朝貢貿易にたいする恩恵であると自負していた。ところがこの政策を実施するにあたって、乾隆帝の時には優になしえたことであっても、道光帝の時にはすでにとうていできなくなっていた世界の変化を清朝は知らなかった。そしてこの変化は、清朝側における実力衰微のためばかりでなく、この間にヨーロッパには産業革命と政治革命があいついで行われ、ヨーロッパの威力は百年前と比較にならないほど強化されていたことから来ているのであった。蒸気機関によって航行するイギリス軍艦はたやすく中国沿岸に集結され、その大砲は中国の砲台を沈黙させ、イギリス艦隊は揚子江を遮断して、中国南部より中国北部へ送る穀物輸送の途を断つことができた。半身不随となった清朝は、イギリスの提出する条件を鵜呑みにして南京条約に調印しなければならなかったのである(一八四二年)。
南京条約は香港をイギリスに割譲することを約したが、ここにおいて広東湾外には、西方のマカオにたいして当方に香港が自由港として開かれ、イギリスの努力・経営によって、しだいにマカオの繁栄を奪い、イギリスの商権を極東に推進する根拠地になった。日本がアメリカ使節ペリーにたいして通商協約を締結して開国したのは、これより十二年の後であり、アヘン戦争の結果を考慮するところがあってのことであった。」
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西洋の逆襲始まる
posted by Fukutake at 07:49| 日記