「九条を読もう!」 長谷川三千子 幻冬舎新書 2015年
九条は平和を破壊する p48〜
「もっとも徹底した平和主義を唱える人々は、九條二項こそが真の平和主義なのだ、と主張します。
過去の数々の戦争の歴史をふり返ってみると、どの国も、これは自衛のための戦争だ、制裁のための正しい戦争だ、と言って戦争を始めている。そしていざ戦争になってしまえば、人が人を殺しても罪になるどころか英雄とたたえられ、無数の人間が血と泥にまみれて死んてゆく、という現実があるのみ。戦争が人類最大の愚行であることが分かっていても、それを断ち切ることができないのは、九條二項のような思い切った戦争放棄を誰もしようとしないからである。わが国はせっかく、世界に先がけてこうした完全なる戦争放棄規定を持っているのだから、解釈改憲などでウヤムヤにすることなく、真正面から九條二項を掲げてつき進むべきものであるー こうした主張がしばしば語られて、ここはたしかに、聞く人を深くうなずかせるものがあります。
しかし、ただ一つ、この主張が見落としている重大なことがある。それは、このような徹底した戦争放棄、戦力不保持は、ある一国の憲法規定にしてしまってはダメだ、ということなのです。
実は、まさに九條二項を先取りしたような、完全な戦争放棄ー 「戦争違法化」ー の理論が、第一次大戦後のいわゆる戦間期に、アメリカで唱えられたことがありました。
ただし、このような全面的な戦争放棄、戦力不保持が世界平和と結びつき売るのは、それが世界全体のシステム変革として行われるかぎりにおいてのことなのです。もし仮に、一国だけそのようなことをしたとすれば、それは単に、この国際社会のなかに軍事の空白地域が一つ出現する、ということに他ならず、それは世界平和への第一歩どころか、世界平和にとってもっとも危険な事態をひき起してしまうのです。
そもそも国際社会における「平和」とは、いかなる「力」も存在しない状態のことではありません(もし仮にそのような「平和」がありうるとして、地球上にそうした「平和」が訪れるのは、地球上のすべての生物が死に絶えたのちのことでしょう)。力と力とがせめぎ合う、この国際社会の現実のなかで、「平和」とはどんな状態のことなのかと言えば、それは<力と力とが均衡を保っている状態>以外ではありません。ですから、そのなかに軍事の空白地域が生じることは、ある一国の軍事的突出と同じくらいー いやそれ以上に危険なことなのです。九條二項は、もしそれが条文どおりに守られるなら、「平和条項」どころではない、「平和破壊条項」そのものになるのです。
「平和破壊条項」であり、かつ「戦法破壊条項」であるー これが日本国憲法第九條二項の真相です。」
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2022年05月26日
肝のすわった若者
「十訓抄」新編 日本古典文学全集 小学館
上巻 一ノ四十一 藤原盛重 p8〜
「肥後守藤原盛重は周防の国の民の子であった。六条右大臣源顕房公の御家来で、何とかいった人物が、周防の国へ目代として下向した際、ある時に、まだ子供であった盛重を見かけて、面魂(つらだましい)のとてもしっかりした者のように見えたので、引き取って、かわいがって育てていたのである。京都に戻ってから、お供に連れて、右大臣源顕房公のお邸へおうかがいした。その南面に大変大きい梅の木があって、供人どもは、「梅の実をとろう」などといって、小石をたくさん投げつけていた。「あの者どもを捕まえろ」と、ご主人が御簾の中からおっしゃっられたので、みんなクモの子を散らすように、逃げていってしまった。
その中で、一人の童(わらわ)だけが、木のもとにそっと隠れて、ゆっくりと歩いていこうとした。「ずいぶん落ち着いて、何事もなかったかのように振舞う者であるなあ」と顕房公は感心されて、人を呼んで、「これこれの物を着ている小童は、誰の供人か」とお尋ねになった。しかし、主人がどう思うかを気遣って、なかなか答えなかった。強いてお尋ねになるので、だまっていることもできず、「これこれの者の童でございます」とお答えしたので、すぐ主人を呼び寄せて。「その童を参らせよ」とおっしゃっられたので、顕房公に差し上げたのだった。
顕房公は、盛重をとてもかわいがって、お使いになっていたが、だんだん大きくなるにつれ、心遣い、思慮ともに深く、文句のない立派な男へと成長していった。常に御前で召し使われていたのだが、ある早朝に手水を持って、御前に参上してきたので、おっしゃられることには、「あの車宿りの棟に、烏が二羽とまっているが、一羽の烏の頭は白く見える。間違いないと思えるが」と、嘘のことをつくりあげて、お聞きになった。盛重はじっと見てから、「それに間違いございません」とお答え申し上げたので、「本当に利口者だ。世間で立派に通用する者になるに違いない」と思って、白河院に、この盛重を差し上げたということである。…」
(原文)
「肥後守盛重は周防の百姓の子なり。六条右大臣の御家人なにがしとかや、かの国の目代にて、下りたるに、ついでありて、かの小童にてあるを見るに、魂有りげなりければ、よび取りて、いとほしみけるを、京に上りてのち、供に具して、大臣の御もとに参りたりけるに、南面の梅の木の大きなるがるを、「梅とらむ」とて、人の供の者ども、あまた礫(つぶて)にて打ちけるを、主(あるじ)の「あやつ、とらえよ」と、御簾の内よりいひ出し給ひたれば、蜘蛛の子を吹き散らすやうに、逃げにけり。
その中に童一人、木の本にやをら立ち隠れて、さし歩みて行きけるを、「優にも、さりげなく、もてなすかな」とおぼして、人を召して、「しかしかの物着たる小童、たが供の者ぞ」と尋ね給ひければ、主の思はむことをはばかりて、とみに申さざりけれど、しひて問ひ給ふに、力なくて、「それがしの童にこそ」と申しけり。すなはち、主を召して、「その童、参らせよ」と仰せられければ、参らせけり。
いとほしみて、使い給ふに、ねびまさるままに*、心ばせ、思ひはかりぞ深く、わりなき*者なりける。つねに前に召し使ひ給ふに、あるつとめて、手水持ちて参りたる、仰せに、「かの車宿の棟に、烏二つ居たるが、一つの烏、頭の白きと見ゆるは、僻事(ひがごと)か」と、なきことをつくリテ、問ひ給ひけるに、つくづくとまぼりて、「しかさま*に候ふ、と見給ふ」と申しければ、「いかにもうるせき者なり。世にあらむずる者なり」とて、白河院に進(まゐ)らせられるとぞ。」
ねびまさるままに* 大人になっていく。
わりなき* 大変優れている。
しかさま* そのとおり。
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盛重の豪胆、利発、俊敏さ。
上巻 一ノ四十一 藤原盛重 p8〜
「肥後守藤原盛重は周防の国の民の子であった。六条右大臣源顕房公の御家来で、何とかいった人物が、周防の国へ目代として下向した際、ある時に、まだ子供であった盛重を見かけて、面魂(つらだましい)のとてもしっかりした者のように見えたので、引き取って、かわいがって育てていたのである。京都に戻ってから、お供に連れて、右大臣源顕房公のお邸へおうかがいした。その南面に大変大きい梅の木があって、供人どもは、「梅の実をとろう」などといって、小石をたくさん投げつけていた。「あの者どもを捕まえろ」と、ご主人が御簾の中からおっしゃっられたので、みんなクモの子を散らすように、逃げていってしまった。
その中で、一人の童(わらわ)だけが、木のもとにそっと隠れて、ゆっくりと歩いていこうとした。「ずいぶん落ち着いて、何事もなかったかのように振舞う者であるなあ」と顕房公は感心されて、人を呼んで、「これこれの物を着ている小童は、誰の供人か」とお尋ねになった。しかし、主人がどう思うかを気遣って、なかなか答えなかった。強いてお尋ねになるので、だまっていることもできず、「これこれの者の童でございます」とお答えしたので、すぐ主人を呼び寄せて。「その童を参らせよ」とおっしゃっられたので、顕房公に差し上げたのだった。
顕房公は、盛重をとてもかわいがって、お使いになっていたが、だんだん大きくなるにつれ、心遣い、思慮ともに深く、文句のない立派な男へと成長していった。常に御前で召し使われていたのだが、ある早朝に手水を持って、御前に参上してきたので、おっしゃられることには、「あの車宿りの棟に、烏が二羽とまっているが、一羽の烏の頭は白く見える。間違いないと思えるが」と、嘘のことをつくりあげて、お聞きになった。盛重はじっと見てから、「それに間違いございません」とお答え申し上げたので、「本当に利口者だ。世間で立派に通用する者になるに違いない」と思って、白河院に、この盛重を差し上げたということである。…」
(原文)
「肥後守盛重は周防の百姓の子なり。六条右大臣の御家人なにがしとかや、かの国の目代にて、下りたるに、ついでありて、かの小童にてあるを見るに、魂有りげなりければ、よび取りて、いとほしみけるを、京に上りてのち、供に具して、大臣の御もとに参りたりけるに、南面の梅の木の大きなるがるを、「梅とらむ」とて、人の供の者ども、あまた礫(つぶて)にて打ちけるを、主(あるじ)の「あやつ、とらえよ」と、御簾の内よりいひ出し給ひたれば、蜘蛛の子を吹き散らすやうに、逃げにけり。
その中に童一人、木の本にやをら立ち隠れて、さし歩みて行きけるを、「優にも、さりげなく、もてなすかな」とおぼして、人を召して、「しかしかの物着たる小童、たが供の者ぞ」と尋ね給ひければ、主の思はむことをはばかりて、とみに申さざりけれど、しひて問ひ給ふに、力なくて、「それがしの童にこそ」と申しけり。すなはち、主を召して、「その童、参らせよ」と仰せられければ、参らせけり。
いとほしみて、使い給ふに、ねびまさるままに*、心ばせ、思ひはかりぞ深く、わりなき*者なりける。つねに前に召し使ひ給ふに、あるつとめて、手水持ちて参りたる、仰せに、「かの車宿の棟に、烏二つ居たるが、一つの烏、頭の白きと見ゆるは、僻事(ひがごと)か」と、なきことをつくリテ、問ひ給ひけるに、つくづくとまぼりて、「しかさま*に候ふ、と見給ふ」と申しければ、「いかにもうるせき者なり。世にあらむずる者なり」とて、白河院に進(まゐ)らせられるとぞ。」
ねびまさるままに* 大人になっていく。
わりなき* 大変優れている。
しかさま* そのとおり。
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盛重の豪胆、利発、俊敏さ。
posted by Fukutake at 08:08| 日記
思想界のドンキホーテ
「Kotoba」 コトバ13号 (創刊3周年記念号) 2013年秋号
京都から考える 佐伯啓思 p23〜
「失敗を運命づけられた京都学派
西田哲学の基本的立場というのは、西欧的な主体というものを消して、「無」に近づいていくという点に求められます。そしてこの「無の思想」に、西洋思想を突破する日本の思想の可能性を見たのが「日本の世界史的使命」を唱えた京都学派でした。
単純化していうならば、日本的な「無の思想」は「有」から出発します。「有」を求める思想は。結局、自由を求める闘争に帰着し、それは力によって利益を奪い合う戦争をもたらしてしまう。同時に、過剰な「有」=「自由」のなかで、人々はニヒリズムの混乱に陥ってしまう。自由を当然のこととして認識し、自由そのものに至高の価値としての実感がなくなってしまい、生きる目標が失われるからです。このように、「有」から出発するかぎり、精神的危機は免れないとひとまず言えるでしょう。
それに対して脱主体的ともいえる「無の思想」は、「有」を求めないで、多様な現実をそのまま受け止めることができる。「有」の世界は勝つか負けるかという線引きが不可避であり、その決着をつけなければならないのに対し、「無」が根底にある日本の思想は、相手が弱かろうが、自分と立場が異なろうが、その現実を受け止めることができる。それは多様なものを含んだ「一」を可能とする。矛盾したものを矛盾したものとして統合できる。
だから、この「無の思想」を持った日本が、世界史の表舞台に出て行き、新しい世界秩序を作っていかなければならないというのが京都学派の主張でした。
しかし、そうやって無の思想を引っ提げて日本が出ていこうとする場所は、西洋が作り出した、主体と主体がぶつかり合う「有の思想」の戦場です。そんな場所で「主体はありません」と言ったところで、新しい世界秩序を作れるはずはなく、どうしたって「有」の争う論理に巻き込まれてしまう。脱主体化を主体的に実現するというのは、根本的に矛盾をはらんでいたのです。
しかも近代日本は、その誕生から「西欧に対抗するために西欧化する」という大きな矛盾を抱え込んでいました。それを哲学者の高山岩男は次のように書いています。「東亜の植民地に最も強い抵抗を示した我が日本が、新たにヨーロッパ風の文化を移植するということは、単にそれだけみれば甚だ矛盾した不可解な現象である」(「世界史の哲学」)
日本が開国して近代化を選んだ明治期から現在まで、私たち脱主体化(=日本化)と主体化(=西欧化)のディレンマを乗り越えることができていません。むしろ、無反省に近代を受容し、グローバリズムにどっぷり浸かってしまった現在の日本は、欧米以上にニヒリズムに陥っているとすら言えます。
現在まで続く日本の矛盾を、無の思想によって乗り越えようとした京都学派の試みは、西洋中心主義に投げ込まれていく当時の日本ではぎりぎりの思想的な試みでしたし彼らが直面した課題は、いまもなお取り残されたままなのです。」
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京都から考える 佐伯啓思 p23〜
「失敗を運命づけられた京都学派
西田哲学の基本的立場というのは、西欧的な主体というものを消して、「無」に近づいていくという点に求められます。そしてこの「無の思想」に、西洋思想を突破する日本の思想の可能性を見たのが「日本の世界史的使命」を唱えた京都学派でした。
単純化していうならば、日本的な「無の思想」は「有」から出発します。「有」を求める思想は。結局、自由を求める闘争に帰着し、それは力によって利益を奪い合う戦争をもたらしてしまう。同時に、過剰な「有」=「自由」のなかで、人々はニヒリズムの混乱に陥ってしまう。自由を当然のこととして認識し、自由そのものに至高の価値としての実感がなくなってしまい、生きる目標が失われるからです。このように、「有」から出発するかぎり、精神的危機は免れないとひとまず言えるでしょう。
それに対して脱主体的ともいえる「無の思想」は、「有」を求めないで、多様な現実をそのまま受け止めることができる。「有」の世界は勝つか負けるかという線引きが不可避であり、その決着をつけなければならないのに対し、「無」が根底にある日本の思想は、相手が弱かろうが、自分と立場が異なろうが、その現実を受け止めることができる。それは多様なものを含んだ「一」を可能とする。矛盾したものを矛盾したものとして統合できる。
だから、この「無の思想」を持った日本が、世界史の表舞台に出て行き、新しい世界秩序を作っていかなければならないというのが京都学派の主張でした。
しかし、そうやって無の思想を引っ提げて日本が出ていこうとする場所は、西洋が作り出した、主体と主体がぶつかり合う「有の思想」の戦場です。そんな場所で「主体はありません」と言ったところで、新しい世界秩序を作れるはずはなく、どうしたって「有」の争う論理に巻き込まれてしまう。脱主体化を主体的に実現するというのは、根本的に矛盾をはらんでいたのです。
しかも近代日本は、その誕生から「西欧に対抗するために西欧化する」という大きな矛盾を抱え込んでいました。それを哲学者の高山岩男は次のように書いています。「東亜の植民地に最も強い抵抗を示した我が日本が、新たにヨーロッパ風の文化を移植するということは、単にそれだけみれば甚だ矛盾した不可解な現象である」(「世界史の哲学」)
日本が開国して近代化を選んだ明治期から現在まで、私たち脱主体化(=日本化)と主体化(=西欧化)のディレンマを乗り越えることができていません。むしろ、無反省に近代を受容し、グローバリズムにどっぷり浸かってしまった現在の日本は、欧米以上にニヒリズムに陥っているとすら言えます。
現在まで続く日本の矛盾を、無の思想によって乗り越えようとした京都学派の試みは、西洋中心主義に投げ込まれていく当時の日本ではぎりぎりの思想的な試みでしたし彼らが直面した課題は、いまもなお取り残されたままなのです。」
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posted by Fukutake at 08:03| 日記