2022年05月28日

歳歳年年人不同

「代悲白頭翁(部分」 劉希夷*

「今年花落顏色改 今年花落ちて顔色改まり
明年花開復誰在 明年花開いて復た誰か在る
已見松柏摧爲薪 已に見る松柏の摧かれて薪と爲るを
更聞桑田變成海 更に聞く桑田の変じて海と成るを
古人無復洛城東 古人また洛城の東に無く
今人還對落花風 今人還た対す落花の風
年年歳歳花相似 年年歳歳花相似たり
歳歳年年人不同 歳歳年年人同じからず
寄言全盛紅顏子 言を寄す全盛の紅顔子
應憐半死白頭翁 応に憐れむべし半死の白頭翁
此翁白頭眞可憐 此翁白頭真に憐れむべし
伊昔紅顏美少年 伊《こ》れ昔 紅顔の美少年

(訳)
今年も花が散って娘たちの美しさは衰える。
来年花が開くころには誰が元気でいるだろう。
私はかつて見たのだ。松やコノテガシワの木が砕かれて薪とされるのを。
また聞いたのだ。桑畑の地が変わって海となったのを。
昔、洛陽の東の郊外で梅を見ていた人々の姿は今はもう無く、
それに代わって今の人たちが花を吹き散らす風に吹かれている。
来る年も来る年も、花は変わらぬ姿で咲くが、
年ごとに、それを見ている人間は、移り変わる。
お聞きなさい、今を盛りのお若い方々。
よぼよぼの白髪の老人の姿、実に憐れむべきものだ。
この老人の白髪頭、まったく憐れむべきものだ。
だがこの老人も昔はあなた方と同じく紅顔の美少年だったのだよ。」
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劉 希夷*(りゅう きい、651年(永徽2年) - 679年(調露元年))

posted by Fukutake at 09:49| 日記

太古の知恵

「NHK アインシュタイン・ロマン 4」宇宙創生への問い 日本放送協会 一九九一年

 「アフリカ、サハラにすむドゴン族の宇宙哲学は、ある意味でビッグバン宇宙論と非常によく似た構造をもっているという。…

 ドゴン族のいくつかの村を統率するドロ長老は、賢者のなかの賢者として、人々の尊敬をあつめている、つねに笑顔をたやさず、「人格の力」を感じさせる人物である。
 ドロ長老に世界のはじまりについて、単刀直入にきいてみた。長老は砂に図をかきながら、かんでふくめるように説明してくれた。

「はじめにはなにもなかった。完全な無であった。そこに小さな種子が突然、
発生した。それがあるとき、爆発して四方八方に飛びちり、世界が一挙に膨張したのだ」
ーなぜ、宇宙は四方八方に飛びちったのですか。
「そのことによって方角というものができたのだ。だからこそ私たちの周りの空間というものは四方八方にひらけているのだ。したがって宇宙の種子の爆発は、当然、どの方向にもおなじようにひろがっていなくてはならなかったはずだ」
ーでははじまりの前はどうなっていたのでしょうか。
「(笑う)それは、くだらない質問だ。はじまりの前は完全な無であったとわしがいったのをおわすれなのかな。そこからさき、いくらそのような質問をくりかえしてもムダだ。無から自然に種子ができ、それが膨張して宇宙になった、そこから先を質問してもこたえられるわけがない」…

 はじまりの問いについては、ドゴン族の人はだれもなやみくるしんではいない。「なにもないところから忽然とすべてがあらわれた」ということになんの心理的抵抗はないからである。
 もっとも、文明人だって「なにもない」ということにさほど抵抗があるわけではない。案外、ふつうの人は、そのことに深いうたがいをいだいたりしないものである。このことに抵抗があるのは科学の専門家である。「なにもない」ということが科学のことばでどう記述できるかがさっぱりわかっていないのだら、これも当然のことだろう。

 長老たちはいう。
「世界がなぜ、どのようにはじまったか? そのような難問を解決したと主張する人はつぎからつぎへあらわれるだろう。しかしそのような人をかんたんに信用してはいけない。そのほとんどはウソである」
 このことばがいかに含蓄に富む言明であるか、この本を最後まで読んだ人にはわかってもらえるだろう。
 ドゴン族の長老の名セリフをもうひとつ。

 「ブラックホールというものがあっても少しもふしぎではない。しかし、ブラックホールにおちこむのはホワイトマンだけだ。われわれではない」

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『ないものがある』とは。
posted by Fukutake at 09:43| 日記

2022年05月27日

もっと取れ

「やぶから棒 ー夏彦の写真コラムー」 山本夏彦 新潮文庫 平成四年

タダほど高いものはない p142〜

 「ほかのテレビはタダなのに、NHKだけは金をとる、皆さん払うのをよしましょうとそそのかすものがあるが、私は不賛成である。

 ほかのテレビというのは民放のことだろう。山本七平氏いわく、民放は莫大な広告料で経営されている。スポンサーはその費用を全部製品に転嫁してる。五年前の調査だが、その総額はひとり年間一万円に当ったという。五人家族なら五万円である。それはビールや酒の間接税に似て、国民は払っている自覚がない。
 ビールや酒は飲まなければ払わないですむが民放で広告している商品は、「広告料転嫁をのぞいた値段」で買う方法がないかぎり、払わないわけには行かない。これでは下戸まで酒税を払わされているようなものだ云々。
 私はこの世にタダのものなどありはしないと思っている。それなのに民放はタダだとだまされて、ついでにNHKまでタダにせよなんて気勢をあげるのは見当ちがいだと思っている。

 私は民放もNHKも、もっともっと金をとればいいと思っている。一ヶ月五万円十万円とるがいい。それがいやなら番組ごとにコインを投じさせるがいいと、何度も書いて恐縮だが書かせてもらう。
 「なっちゃんの写真館」一回百円と聞けば、たいていの人はコインを投じようとしてやめるだろう。こうして番組は厳選された女子供がテレビを見る時間は激減し、視聴率などという不確かなものではなくて、番組ごとに○千○百万円という確かな収入があるだろう。

 「芸」は客が劇場へ出むいて入場料を払ってひまをつぶしてくれて始めて芸である。タダで先方からおしかけてくる芸にろくなものがあるはずがない。
 タダは芸人と客を無限に堕落させる。コインを投じれば芸人と見物の仲は回復する。一家の団らんも回復し、あのテレビの百害といわれるもののたいていは一掃され、すべてはまるく納まるだろう。

(週刊新潮 昭和五十五年八月二十一日号)

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この世は知ってダマされ、それで満足。

posted by Fukutake at 09:15| 日記