「新訂 小林秀雄全集 第六巻 − ドストエフスキイの作品−」 新潮社
「罪と罰」についてU より p257〜
「ドストエフスキイが兄に宛てた手紙の一節 −−
「確かに僕は怠け者だ、非常に怠け者です。しかし、人生に對して、ひどく怠けた態度をとる他に、どうも僕には道がないとすれば、どうしたらよいか。幾時になつたら、この僕の暗い心持ちがなくなるか見當がつきません。思ふに、かういふ心の状態は、人間だけに振り向けられたものだ。天上のものと地上のものとが混じり合つて、人間の魂の雰圍氣が出来上つてゐる。人間とは、何んと不自然に創られた子供だろう。精神界の法則といふものが、滅茶滅茶になつてゐるからです。
この世は、罪深い思想によつて損はれた天上の魂達の煉獄の様に、僕には思はれます。この世は、途轍もない或る否定的なものと化し、高貴なもの、美しいもの、清らかなもの悉くが一つの當てこすりとなつて了った様な氣がします。ところで、かういふ繪のなかに、一人の人間、繪全體の内容にも與らぬ、一と口に言へば、全くの異邦人が現れたとしたら、どういふ事になるでせう。繪は臺無しになり、無くなつて了ふでせう。だが、全世界が、その下で呻いてゐるお粗末な外皮は見えてゐるのだし、この覆ひを破り、永遠と一體となるには、意志を振ひ起こせばよいとは解つてゐる。解つてゐる、解っつてゐて、凡そ生き物のうちで一番やくざ者の爲體で、かうしてゐるのだ。これは堪らぬ事です。
人間はなんと意氣地のないものか。ハムレット、ハムレット。彼の荒々しい、嵐の様な話を思ふと、足腰立たぬ全世界の歎きが聞えて来る様で、もう僕の胸は、悲し氣な不平にも非難にも騒がぬ。僕の心はいよいよ苦しくなり、僕は知らぬ振りをする。でないと心が毀れて了ひさうです。パスカルは言つた。哲學に反抗するものは自身が哲學者だ、と。傷ましい考へ方です。 −− 僕には新しい計畫が一つあります。發狂する事です。いづれ人間どもは、氣が變になつてみたり、正氣に返つてみたりする、それで構わぬ。貴方が、ホフマンを皆讀んだのなら、アルバンといふ人間を憶えているでせう。あれをどう思ひますか。自分の力の裡に、或る不可解なものを持ち、これをどう扱つていいか知らず、神といふ玩具と戯れてゐる男、さういふ人間に眼を据ゑてゐるのは恐ろしい事です」 (一八三八年八月九日、ミハイル宛)
一八三八年と言へば、ドストエフスキイ十七歳の時であるが、誰がこれを少年の日の氣まぐれと讀もうか。非凡な藝術家が、自己の仕事の本質的な方法を豫感するのは、屢々驚くほど早いものである。」
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早熟のドストエフスキイ。
2022年04月27日
少年ドストエフスキー
posted by Fukutake at 10:43| 日記