「學士會月報」 第三九七号・大正十三年三月発行 掲載論文
『明治神宮の建設に就て』伊東忠太 (「學士會会報」十一月 2020-Y より 転載) p81〜
「…大正二年十二月二十日政府は明治天皇を奉祀すべき神社の創建に就て調査すべく神社奉祀調査会なるものを設けた。伏見宮貞愛親王殿下を総裁とし内務大臣を委員長とし、委員には…
敷地に就いては当初民間に於いて幾多の候補地が唱提されたが往々甚だ突飛なものがあつた。富士山の頂、函根山の上、筑波山嶺などは其著しいものであつた。その中自分の最面白いと思つたのは府下飯能である。俗塵を去ること適当なる距離にあり、後に山岳の背景を有し、神社として必須欠くべからざる水流にも樹林にも富んで居る。只欠点とすべきは東京市民に取ては参拝に不便なことである。若しも神社が東京市民の参拝の為に建立せらるるものならば飯能は不適当である、若しも神社が公衆の参拝と云ふことを問題とせず、只神社の風致体裁を主とするならば飯能は絶好の敷地であると云へるのである。その外に下総の国府台説もあつたがこれは飯能よりも劣位にあると思ふ。
…最終的に候補として今の代々木の御料地が踏測された。ここは土地は高燥であり地盤も堅牢であり、元来加藤清正の邸であつたと伝へられ、その後井伊家の下屋敷になつたので美しい御苑があり、二三の古蹟などもあり、昭憲皇太后は屡々行啓あり、明治天皇も行幸になつたことがある。土地の広さも申分がないが高低の変化の趣は充分と云へぬ。相当の松林や杉並木、その他多少の巨木があるが概して樹木が若い。…
要するに今の敷地は決して理想的絶好と云ふべきものではない。只東京市内外に之に優る適当なる土地を得ることが出来なかつた為に撰定されたに過ぎぬ。しかも今日は、あらゆる人事を尽くして土地に高低を作り樹林を殖成し、径路を開き泉池を鑿ち、荘厳なる社殿がその間に聳え立つので、多くの人士、殊に幽邃神秘なる他の神社の例を知らない人士は、今日の敷地を以て略ぼ理想的の絶好なる神秘境と認めて居るのであろう。勿論今後五十年を経過したならば樹木が成長繁茂して見違へる程立派になるであろうが、その代わり都市も見違える程発達して、神社敷地は大厦高閣を以て囲繞せらるるに至らぬとも限らぬのである。…」
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明治神宮創建内輪話