2022年04月21日

魂の訪れ

「現代民話考 5」 松谷みよ子 ちくま文庫 2003年

死者のおとない 

「栃木県安蘇郡田沼町。実はこの家でもそういう経験がある。隣村の近親(とついだ妹であった)が死んだ夜のこと、その当人が夜更けにここへたずねて来た。門口の所で声をかけるのが、まぎれもないその本人で今ごろ来るはずはないがといって、家人が起きて行って潜り戸をあけて見ても、誰もいなかった。たしかに声がしたがと、家の横手まで探したが、人っ子一人見えない。それで寝床に戻ると、また訪(おとな)う声がする。しかし人はいないのである。そうして何時間かしたら、先程亡くなりましたという知らせの二人の使いが、今度は現実にやって来た。思い合せると、時間もちょうど符合する。人の思いが、ああした形でたずねて来たのでしょうという話であった。

 千葉県成田市。大正十年頃の話。長姉が大阪にとついで数年後のある夜、雨の中で玄関の戸をたたく音と傘にあたる雨音にふと目覚めて、起きて戸をあけたが、その折、「お母さん、とよ子ですよ」といった声が聞こえた。翌日、大阪の家から長姉が亡くなったという知らせが届いたと、しみじみ話された。人には魂があると母は語った。

 伯父の一家が茶の間に集まって夕飯を食べていると、隣室は玄関のある部屋であるが、その玄関でごめん下さいという女の声がした。娘の一人が立って行って見たが、ガラス戸は締まったままで人の気配がせぬので、戸を開けて外を見たが誰も居なかった。座に戻って暫くすると、再び澄んだ女の声でごめん下さいと聞えた。家内中顔を見合せ、此夜は折角わかした風呂にも入るものがなく恐くて早く床に入ったという。後で考え合わせると、遠く北海道に嫁している長女が死んだ知らせであったが、この長女は気丈な子で死ぬまで苦しみを一言も訴えなかった。病が篤くなって夢中になり、あれあれ誰さんの顔が見える、誰さんの顔も見える、みな私を呼んでいるが、疲れて苦しくてそこまで行けないといううわ言の様にいう。その出てくるという顔は何れも夙に死んだ人ばかりなので、此時も皆顔見合わせたそうである。

 終戦の年の七月のことです。真夜中に玄関の戸がガラガラとあき「お母さんただいま帰りました」と声がするので祖母と私はびっくりして起きました。しかし玄関の戸が三十センチほどあいているのにだれもいません。へんだなと思いながら床に入りウトウトしていると今度は仏壇の中でガラガラという音がしました。こわくてふとんにもぐり、じっと朝まで息を殺していました。明るくなって部屋の中を見回すと、まくら元のフスマが十センチほど開いており、閉めたはずの仏壇のトビラがやはり十センチほど開いているのです。そのうえ、ものがひっくりかえるような音がしたのに仏壇の中はなにひとつ乱れていないのです。それから一ヶ月後、出征し、ビルマで行方不明になっていた祖母の一人息子の戦死公報が届きました。あの夜の不思議なできごとは叔父の霊が帰って来たことを知らせるものだったのでしょうか。」

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ロシア・ウクライナでは毎夜繰り返されている音ないであろう。

posted by Fukutake at 13:05| 日記

君の判断

「自省録」 マルクス・アウレーリウス 神谷恵美子訳 岩波文庫

 「二六 人間の喜びは人間固有の仕事をなすにある。人間固有の仕事とは同胞にたいする親切、感覚の動きにたいする軽蔑、信ずべく見える思想の真偽の鑑別、宇宙の自然およびこれに従って成長する事柄の観照等にある。

二九 君の想念を抹殺してしまえ、その際絶えず自分につぎのごとくいいきかせるがよい。「いま自分の考え一つでこの魂の中に悪魔も色情も、心を乱すものは一切存在しないようにすることができるのだ。また万物をあるがままの姿で見きわめ、各々その価値に応じて遇することができるのだ」と。自然によって与えられている君の能力を銘記せよ。

四四 現在の時を自分への贈物として与えるように心がけるがよい。それよりも死後の名声を追い求める方を選ぶ人は、つぎのことに気がつかないのだ。すなわち未来の人たちも、現在重荷に思われる人びととまったく同じような人間であり、やはり死すべき人間であるということである。いずれにせよ、その人たちが君についてこれこれの反響を示したり、君についてこれこれの意見を持つとしたところで、それがいったい君にとってなんであろうか。

四六 人間には、人間的でない出来事は起こりえない。牡牛には、牡牛にとって自然でない出来事は起こりえない。葡萄の樹には葡萄で自然でない出来事は起こりえない。かように、もし各々のものにおきまりの自然なことのみ起こるならば、なぜ君は不満をいだくのか。宇宙の自然は君に耐えられぬようなものはなにももたらさなかったではないか。

四七 君がなにかの外的な理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。ところがその判断は君の考え一つでたちまち抹殺してしまうことができる。また君を苦しめるものがなにか君自身の心の持ちようの中にあるものならば、自分の考え方を正すのを誰が妨げよう。同様に、もし君が自分に健全だと思われる行動を取らないために苦しんでいるとすれば、そんなに苦しむ代わりになぜいっそその行動を取らないのだ。「しかし打ち勝ち難い障碍物が横たわっている。」それなら苦しむな。その行動を取らないのは君のせいではないのだから。「けれどもそれをしないでは生きている甲斐がない。」それなら人生から去って行け。自分のしたいことをやりとげて死ぬ者のように善意に満ちた心をもって、また同時に障碍物にたいしてもおだやかな気持ちをいだいて去って行け。」

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posted by Fukutake at 11:40| 日記