「ツチヤの口車」 土屋賢二 文藝春秋 2005年
欠点を苦にしない方法 p126〜
「人間には教育する者と教育される者がいる。わたしは大学教師だが、教育される側である。教えられる内容は主として、わたしのどこが間違っているのか、わたしの欠点が何であるかということだ。長所を教えてくれる者は皆無である。
こういう経験を重ねていると、わたしもだんだん自信がなくなり、まるでわたしが欠点だらけであるようなきがしてくる。わたしの欠点を指摘する連中は欠点だらけだ。慰めてやろうと思って、学生に聞いた。「君の欠点は何だね」
「えー、欠点ですかぁ…」「考えるまでもないだろう。長所じゃないんだよ。欠点なんだからいっぱいあるだろう。実に気の毒だ。性格や知能は除いていい。それでも一つにしぼるのは難しいから列挙してごらん。今日中に言い終わらなくてもいいんだ。わたしは帰るが、君一人で言い続ければいい」
「強いて言えば足が甲高です」
「なに〜? ちょっと待て。それはゴジラが<火を吹くのが欠点だ>と告白するようなものだろう。甲高が欠点か? むしろ君の中では唯一の長所だろう」
「子どものころから欠点だと言われてきたんです」「でも甲高は靴もはきやすいし、ジャンプ力もある。どう見ても長所だ。偶然わたしも甲高だ」
「ジャンプ力が何の役に立つんですか。バッタならともかく」
「ほら見ろ。君がバッタだったら喜ぶはずだ」
「無意味な仮定はやめてください。バッタじゃないんだから」
「コオロギの方がいいのか」
「コオロギになるくらいならバッタの方がいいです」
「えっ、なぜなんだ? コオロギに方が声がいいだろう」
「バッタの方がジャンプ力があります」
「滅茶苦茶な論理だ。まるで君の答案を読んでいるみたいだ」
「とにかく人間にはジャンプ力なんて使い道がありません」
「幅跳び、高跳び、三段跳びで有利じゃないか。マサイ族は何のためか知らないが、その場飛びをしているだろう。マサイ族の男はジャンプ力がないとやっていけないのだ」
「わたしには関係ありません」
「なぜ素直に喜べないんだ。役に立たないのが気に入らないなら、消化力が強いとか咀嚼力が強いというのならうれしいか」
「うれしくありません。だいたい役に立つと言われても慰めにはならないんです。鼻の穴が大きいことに悩んでいる人に…」「鼻の穴が大きい人は何事も悩まないはずだ」
「無茶な断定はしないでください。鼻の穴が大きい人に、嗅覚にも酸素摂取にも便利だね、と言っても喜びませんよ」「たしかに鼻の穴が大きいと、毒ガスも吸い込みやすいから」
「そんな問題じゃありません」
「ちょっとボケてみせただけだよ。鼻の穴が大きければ毒ガスを吐き出しやすいんだ」
「全然分かってないですよ。役に立つと言われてもうれしくないんです。ましてジャンプ力で喜べるはずがないでしょう」
「しかし生命に関わるような重大な場合もある。たとえば、下半身デブなら、地震のとき有利だ。地震では建物の一階部分が危ないが、下半身デブの一階部分は丈夫だ、それにビルから落ちても足から落ちる」
「そんなことでだれが喜ぶんですか。脂肪が乗ったマグロはおいしいと言われても、マグロは喜ばないでしょう」
「じゃ君は何の役にも立たない人間でいいんか」
「いいんです。美しければ」
「無意味な仮定はやめてもらいたい。まさか自分の容姿に満足しているんじゃないだろうね」
「不満はいっぱいあります」
「そうだろうとも。だが悲観することはないからね。妖怪の中に入ったら、モテるとはいかないまでも、目立たないはずだ」「妖怪と比べても意味がないでしょう」
「いやそれは違う。たとえば足が短いと悩む人は、大多数の平均的人間と比べて短いのを悩んでいるのだ。だから、何と比較するかは重要だ」「だからと言って妖怪と比較することはないでしょう」
「妖怪でもニワトリでもダンプカーでもいい。君が安心できればいいんだ。無理にまともな人間と比較することはない。だいたい自分がまともな人間だと思うから悩むんだ」
「先生が悩んでいない理由が分かりました」
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