「歌枕をたずねて」 馬場あき子 角川選書 1981年
不破の関 p122〜
「不破の関は伊勢路と東海道を封鎖する鈴鹿の関と、琵琶湖の北方から北陸を押える新発(あらち)の関とともに三関に数えられ、東山道を塞ぐ要衝であったが、桓武天皇の時代に逢坂の関の設置をみて不用化されていった。ただ、、廃関ながら時に応じて固関使(こかんし)が派遣されたらしく、関屋は荒廃しつつかなりあとまで残っていたらしい。いまは中山道関ヶ原町の松尾に残る旧中山道ぞいの左手に旧跡の碑がを残している。三輪産婦人科病院の敷地内に保存されているその「美濃国不破故関銘」は文政五年のものだが、さらにもう一つ文政三年の幕府内史局の手によって記念されたものも残っている。同病院の当主三輪氏は、不破の関の関守の末裔であるということだった。
庭内のほとんどは不破の関跡の保存に割かれ、この一箇所に蒐められて、芭蕉、支考その他の句碑が密集していた。
秋風や藪も畠も不破の関 芭蕉
不破の関を詠んだ句ではやはりこの句を越えるものは見当たらない。三輪病院の前の急な坂を下ると、右手にはじゃがの群落はほの紫に道に沿い、左は萱葺(かやぶ)きの農家である。杉木立の道に風は青やかに吹き通い。道は遠くからほのぼのと暮れかかる。この坂の上に細く昏れ昏れと延びている旧中山道の一筋も、鄙びて寂しく、木立が夕陽をはやくも隠していた。両道ともほどなく国道に行き当たるが、この夕陽の気分は今日の圧巻であった。
それは芭蕉の句の情緒が面影のように心に添うているからかもしれない。そしてまた、芭蕉の一句のけはいがまただ目前の景の中に存在しているということの嬉しさももちろんある。白々とした侘しい秋風の中に、小刻みに揺れそよく地に低いこまやかなみどりの葉、そこからかもし出される鄙路の寂寥感が、芭蕉の足をこの一点に立ち止まらせつつ、たちまち不破の関という独特の廃墟感をもつ固有名詞への恋着と結びついている。それは、とてもみすごしてゆくことは不可能な詩の世界を示唆し、何よりもその寂寥の情緒をうむ秋風のほの白さと結びついて、この一句の緊密な一世界を構成している。
そしてまた、別ないい方をすれば、この芭蕉の一句こそ、かの後京極摂政良経の『新古今集』の名歌を換骨奪胎した粉骨の本歌取りだともいえるのである。「不破の関」という。この白々としてさびしい、孤独なイメージにつながりやすい鄙路の古関の名称を、情緒として止揚するに「秋風」以外のことばがありうるであろうか。
人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにしのちはただ秋の風
後京極摂政良経 」
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