2022年04月08日

国を守る国民の心

「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年

コンセンサス p254〜

「プラトンは、国政の運営における国民的「合意」にも二つのものが区別されなけれ ばならぬとことを注意している。その一つは、「みんながそう言っている」けれども、そ れには何も確実な根拠が見当たらないような場合の、「みんなそう思っている」という だけの思いこみ合意(ホモドクシアー)であり、これに対立する知性的合意(ホモノイ ア)の名があげられている。
これは学問的知識の土台の上に立ち、これの共有によっ て生ずる合意あるいは一致と言うわけである。しかし実際問題として、この二つを見 分けることはそう簡単ではない場合が少なくない。 学問知識の場合だけに限って言えば、この種の合意や一致はむしろ当たり前の話 であって、そうでないものを排除するのも、共有されている学問知識の土台の上で論 理必然的に行われる。しかし「一寸先は闇」などと言われる政治の世界にあっては、 事情は全く逆である。特に戦後の時流の激しい変化のなかにあって、われわれが国 民的合意の土台とすることのできる共有財産として何をあげることができるのか、何 人も自信をもって答えることができないだろう。
しかしこのような世の中にあってこそ国 民的同意をつくり出す能動性を、わが国の政治指導者に期待しなければならないだ ろう。 しかし知性的合意に関する限り、それは「つくり出す」より「見出す」べきものなのか も知れない。コンセンサスは語義的には「共感」であって、必ずしも知性的とは言われ ない。しかしこの感覚的なものから記憶によってこれを保存することで経験が生じ、そ こからまた科学知識に向上することが、人間的成長の常道なのである。 政治においても、国民が何を感じ何を欲しているかを把握することは、一つの出発 点としての重要性をもつと言わなければならない。
しかし、出発点だけでは何も生成 しないのである。否、何も始まりさえもしないのである。政治家は世論に示されている 国民の欲情に奉仕するだけの給仕人であってはならない。むしろかれらの心身両面 の健康のためを図る医師や教育家のきびしさももたねばならない。知性的同意という ものは、そういう政治的配慮の下にようやく達成される政治の目標なのであって、はじ めから思いこみ合意などのうちにあたえられているものではない。
かの安保さわぎの時の「アンポハンタイ」は知性的ではなく、むしろ感情的盲目的な ものであった。今日わが国の安全保障の問題は安保なしには考えられないということ が今日の言わば国民的合意と見なければならず、この方は知性的合意に近いと言う ことができるだろう。つまり国民的同意にも成長と言うことがあり、長時間を要するも のもあると言うことである。そしてそれが「時すでに遅し」ということになりかねないの である。そこにわれわれの深く憂えねばならぬ点があるのだ。」
(文藝春秋 巻頭随筆 補遺 昭和六十年十一月号)

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posted by Fukutake at 07:42| 日記